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<シリーズ>188名日本殉教者列福の推進

▽現在、日本の教会は188名の日本殉教者の列福を推進している。188名の略歴とその殉教について連載する。それを通して殉教者への崇敬と関心が高まることを期待する。△  溝 部 脩

このページの原稿は、「カトリック仙台教区報」のために前仙台教区長溝部脩司教が執筆されたものです。

ペトロかすい岐部神父の殉教 高橋主水アドリアノと他の7 ③ ―米沢の殉教者― 甘粕右衛門ルイス
④―ジョアン原主水― ⑤―天草の殉教者、荒川アダム― ⑥―京都の殉教者―
―広島の殉教者―フランシスコ遠山甚太郎正信 ―小倉の殉教者―ディエゴ加賀山隼人 ⑨―雲仙の殉教者―パウロ内堀作右衛門
⑩金鍔次兵衛トマス神父

ガスパル西玄可(にしげんか)とその家族

⑫―熊本の殉教者―加賀山みやの殉教
中浦ジュリアン-長崎の殉教者    
ペトロかすい岐部神父の殉教

 

 ペトロ岐部は豊後国(大分県)国東半島にある岐部村に1587年ごろ生まれた。関が原の戦いで西軍にくみした大友軍は破れ、その国を失った。岐部一族もそれにつればらばらに散り、ペトロは有馬のセミナリオに送られた。セミナリオ卒業後数年教会で同宿(カテキスタ)をしていたが、徳川家康の禁教令発布とともに1614年マカオへ追放された。マカオで司祭に叙階される可能性が少ないのを知り、インドのゴア、更に駱駝の隊商とともにシルクロードを歩き、聖地を訪れ、更にローマまで行った。ローマで司祭に叙階され、イエズス会に入会し、ポルトガルを出立、マカオに戻った。しかし日本は迫害が激しく、司祭が日本に潜入するのは容易ではなかった。 シャムのアユタヤで待機していたが、日本入国の可能性がないと分かるや、フィリッピンに渡り、ルパング島で船を建造し、同僚の松田神父と共に鹿児島沖まで漕ぎ着けた。長崎は1628年頃より地獄の様相を示しており、そこに働くのは不可能に近かった。岐部神父は東北に宣教の拠点を変え、水沢を中心として信者を訪問し、励まし助けた。島原の乱後幕府は司祭探索に意欲を燃やし、遂に1638年水沢で捉えられた。江戸は小伝馬町の牢に送られ、拷問を受けたが、ついに転ぶことがなかった。逆さつるしの刑にあっても他の同宿を励ますことを止めないので、最初に殺された。1639年7月のことであった。享年52歳。

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②―有馬の殉教者―高橋主水アドリアノと他の7

 1612年、幕府は天領に禁教令を発布した。これにすぐ反応して迫害に踏み切ったのは、皮肉にもキリスト教が一番盛んであった島原半島であった。領主の有馬直純は保身の政策をとり、幕府の威光におもねるべく、まず家臣の追放に踏み切った。更に1613年には8名の重臣を呼び、信仰を捨てるように強要した。内3名はどうしてもその意向に添えない旨を宣言し、死刑の宣告を受けた。高橋主水アドリアノとその妻ヨハンナ、林田助右衛門レオとその妻マルタ、息子11歳のヤコブと17歳の娘マグダレナ、竹富勘右衛門レオと息子パウロの8名であった。1613年10月7日火曜日、8名は有馬の海岸まで連行され、そこに立てられた十字架にくくりつけられ、火刑を受けて殉教した。いずれも有馬家の重臣であった。マグダレナは若い身を貞潔の誓願で神に捧げていた。ロザリオの祝日にあたっている殉教であるので覚えやすい。(図は「不思議のメダイ」ホームページより)

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―米沢の殉教者― 甘粕右衛門ルイスとその仲間―

米沢地方には、イエズス会とフランシスコ会の司祭が働いていて、3千人余りの信者がいた。米沢教会の中心人物は甘粕右衛門ルイスであった。甘粕家は上杉譜代の家臣であり、上杉会津移封の際には右衛門の父は白石城主であった。ルイスは談義者と呼ばれ、米沢の共同体の責任者であった。1624年上杉景勝が死亡するまでは、上杉藩は目立った迫害を行うことはなかった。しかし、景勝死亡を機に、幕府は圧力を若い定勝に加え、右衛門とその仲間を逮捕せざるを得なくなった。1629年1月12日から13日にかけてのこと、右衛門とその仲間は逮捕され、北山原刑場において斬首、殉教した。彼らの血は雪に埋もれていた刑場を赤く染めた。 

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北山原刑場

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④―ジョアン原主水

原主水は千葉臼井城主の子に生まれた。父は小田原の合戦に参加して、戦死。幼い主水は徳川家康に拾われ、小姓として伏見に住んだ。そこで教会の門を潜り、受洗。家康に従って静岡に移った時は個人的な事情もあり、一時教会を離れた。1612年徳川の禁教令が発布され、まず旗本衆が追放された。その中にジョアンも含まれていた。1614年捕まり、安倍川河原で指を三本ずつ切り取られ、足の筋を切られて放置された。いつの日か江戸浅草のハンセン病人の中にあり、教会の指導的立場にあった。1623年捕まり、品川宿の札の辻において、デ・アンジェリス神父、ガルベス神父、その他の信徒とともに火刑にて殉教。彼は終始身動きもしないで立っていたが、遂に柱とともに前方に倒れ、手足を伸ばして大地に横たわったままであった。関連リンク<A> <B>

【江戸大殉教の図・馬上が原主水】

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―天草の殉教者、荒川アダム

荒川アダムはいつの時からか、天草志岐教会で多くの奉仕の仕事をしていた。1614年幕府の命令で全ての司祭たちが海外に追放された時、天草の教会の世話を最後の神父はこのアダムに任せた。彼ははや70余歳であった。司祭不在の教会の管理から洗礼の執行、病者訪問、死者の埋葬、葬儀などできる限りの仕事をこなしていた。特に大きな仕事は信者の世話であり、最大の奉仕は主日の奉仕であった。集会祭儀を行い、信者を霊的に高めるように最大の努力を払っていた。

 しかし、迫害の手は天草全土に及び、まず目をつけられたのは、教会の中心人物である荒川アダムであった。彼は捕縛され、尋問を受け、拷問された。しかし、この老人はいかなる拷問にも決して信仰を捨てるとは言わなかった。ついに役人は業を煮やし、せめて孤独の中に閉じ込めれば失望するだろうと考え、一軒の家に幽閉した。彼はこれを一人で神を想う良い機会と考え、益々意気を高めた。これでもう仕方がないと諦めた役人は、彼に死刑を言い渡した。

1614年6月5日早朝、朝まだ暗い内に連れ出され、刑場で首を切られて殉教した。遺体には石がくくりつけられ、海中に沈められた。荒川アダムは、迫害にある天草の信者の模範となり、励ましとなった。

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    【天草の崎津天主堂】

 

 

 

 

 

―京都の殉教者―

初期の頃より日本の宣教師は、京都の宣教を大切にした。そのこともあり、京都は1614年の迫害開始にあたり、最初に試練を受ける場所となった。司祭や主だった指導者は京都を追放された。それでも熱心な信者は京都に残り、教会を守った。

 クリスマスを祝ったすぐ後に、1619年1月10日キリシタンの町(ダイウス町)は役人に取り囲まれ、信者は捕えられ、投獄された。7月には京都の信者の中心人物であったジョアン橋本太兵衛とその家族が捕えられた。太兵衛の家族は、妻のテクラと5人の子供であり、テクラのお腹の中にはもう一人の子供がいた。

 10月5日、27本の十字架が六条河原に準備された。翌6日、殉教者たちは山車に乗せられ、京都市内を引き回され、六条河原に到着した。十字架にくくりつけられ、火が放たれ、殉教した。総勢52名、内男子26名、女子26名、しかもその中で子供の数は11名。女子供が多いのが、京都の殉教の特徴である。感動的な殉教の場面をこの短い紙面で紹介することは不可能である。拙著「キリシタン地図を歩く」を参照されたい。

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【殉教するテクラとその子供たち】

 

 

 

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―広島の殉教者―フランシスコ遠山甚太郎正信―

遠山甚太郎は1600年生まれ、和歌山においてキリスト教と出会い、洗礼を受けた。和歌山にキリスト教を伝えたのはフランシスコ会の神父であり、遠山家は熱心な信者となり、甚太郎はフランシスコ会第三会会員となり、「帯の組」(コルドン)に属した。後に迫害の最中司祭不在でも、信者の信仰を保たせたのはこの「帯の組」であった。この組織なしに東北のキリシタンについては語れない。

 1619年、浅野長晟(ながあきら)転封に従って和歌山より広島に移った。広島は前任者福島正則がキリスト教に好意的であったこともあり、教会は盛んであった。しかし、1623年三代将軍家光就任とともに、その威光を内外に示すために江戸札の辻においてキリスト信者を一斉に処刑に付した。これを契機に広島にも迫害が激しくなった。

 「宗門改め」が行われ、誓約書を書面に記して役所に届けることが義務付けられた。甚太郎不在の折に、宗門改めが行われ、彼に代わって別の人が署名捺印して役所に書類が提出された。それを後で知った甚太郎はすぐさま「宗門返し」を行った。更に「寺請制度」が定められ、全ての人はどこかの寺に属することが強制された。甚太郎はそれを拒み、1624年2月16日、殿の家来が彼のもとを訪れ、棄教を迫った。それを拒んだ甚太郎は逮捕され、切腹を命じられた。信者であることを理由に切腹を拒否し、斬首された。享年24。

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―小倉の殉教者―ディエゴ加賀山隼人  

1566年加賀山隼人は摂津国高槻に生まれた。10歳の時にフロイス神父より受洗。高山右近の家臣として文武、特に信仰に励む。右近は1580年改易となり、隼人はキリシタン大名蒲生氏郷を頼って会津若松に赴いた。氏郷の死後、丹波の領主細川忠興に仕えた。関が原の戦い(1600)の後、九州に下り、中津においては、郡奉行として近郊一帯をキリスト教化するのに一役かった。小倉に移り住み、細川家の家老職を果たす。1614年徳川禁教令が出され、主君の細川忠興は度々隼人に棄教を迫った。「時勢に順じては・・・」という忠興のことばは彼を説得することはなかった。また、「心で信じていればそれでよいのではないか」ということばも彼を納得させなかった。堅固な彼の意志を覆すことが出来ず、忠興は隼人処刑を決定。1619年10月15日、小倉において斬首、殉教した。享年54歳。

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雲仙の殉教者-パウロ内堀作右衛門―  

内堀作右衛門は有馬家に仕えた武士。主君晴信が不祥事件を起こして切腹、嫡男直純は棄教、1613年以降有馬領では迫害がおこった。直純が日向領に国替えとなった時に、作右衛門が棄教した主君に随行することを好まず、武士を捨てて百姓となった。有馬領の本格的迫害は1623年よりであり、三代将軍家光就任とともに諸大名に迫害を迫った。1627年棄教を迫られた作右衛門は3人の息子と共に捕らえられ、同年2月21日三人の息子は他の12名と共に手の指を切断され、パウロの眼前で首に石をつけられて海中に投げ入れられた。その後作右衛門も両指を切られ、額に「切」「支」「丹」と焼印された。次いで作右衛門とその仲間15名は雲仙に送られ、湯壷のそばに立たされ、一人ずつ湯壷に投げ込まれて殉教した。1627年2月28日のことである

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⑩金鍔次兵衛トマス神父

 金鍔次兵衛(きんつばじひょうえ)トマス神父は、長崎県大村出身、有馬のセミナリオで学び、1614年国外追放、帰国したが司祭になる思い止みがたく、マニラに渡り、アウグスチノ会に入会、1628年セブ島で司祭に叙階されました。1631年日本潜伏に成功、長崎の奉行所に馬丁として働き、夜は信者を励まし助けた。1634年以降、長崎においては神父詮索が厳しくなり、彼の行方を警吏はしきりに追った。しかし、神出鬼没の彼は捕まら金鍔を持つ化け物という噂が流れた。それでも1636年偶然に逮捕され、捕吏を喜ばせた。数々の拷問に耐え、転んだという噂にさえも耐えて、1637年月6日西坂の丘で穴吊るしの刑で殉教した。35歳。

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ガスパル西玄可(にしげんか)とその家族
 ガスパル西は1556年頃生月(いきつき)に生まれた。幼少にして受洗、妻ウルスラと共に殉教者一族を築いた。次男トマス兵次は有馬のセミナリオに学び、1614年国外追放されたが、司祭になる望みを絶ちがたく、マニラに渡り、ドミニコ会に入会、司祭に叙階されて日本に潜入帰国。1634年殉教。現在聖人の位にあげられている。平戸の領主松浦鎮信(ちんしん)は反キリスト教であり、1609年11月生月の中心人物西玄可に棄教を迫った。棄教を拒んだガスパルに死刑の宣告が言い渡された。1114日処刑場に連行され、斬首された。妻ウルスラと長男ジョアン又一も連れ出され、連行途中でウルスラは後ろから刺し殺され、ジョアンはひざまづいて刀を受けた生月ではガスパル様と呼ばれて今も尊崇を受けている。

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 ◆ガスパル西玄可の一家が処刑された地。 中江ノ島を見下ろす黒瀬の丘に「ガスパル様」の石積みの墓の横にカトリックの有志が建てた記念碑がある周りはクルスの丘公園となっている。

 

―熊本の殉教者―加賀山みやの殉教

みやの父は小倉の殉教者加賀山隼人である。隼人には3人の娘がいた。みやは長女であり、同じ家老の小笠原小斎の次男玄也に嫁いだ。小斎は細川ガラシア夫人の自刃を助けた家老であった。禁教令(1614年)後、玄也夫妻はしつこく棄教を迫られた。「忠興様何と仰せ出され候とも、転びまじく候」という有名な手紙を主君に送って、信仰を表明した。父隼人の死後は禄を剥がれて貧苦にあえいだ。細川家が熊本に転封された時に共に熊本に移り、やはり信仰を貫いて生きた。二代藩主細川忠利は玄也の幼友達であり、彼らを処刑するのは好まなかった。しかし、家中より訴人が出て、これ以上彼らをかばうことは困難となった。1635年玄也夫妻、子供9名、使用人4名、計15名は一軒の家に監禁された。50日間牢にあって、親しい人々にあてて遺書を残した。「捨てがたき宗旨故、かようになり参らせ候」とみやは書いている。1636年1月30日、熊本禅定院にて殉教。

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⑬中浦ジュリアン-長崎の殉教者  

1582年2月長崎を出立した4人の少年がいた。その中の一人が大村領中浦出身のジュリアンであった。有馬のセミナリオ在学中、選ばれて日本の諸侯の使節としてヨーロッパの旅にでた。9年の歳月を経て帰国、秀吉から家臣になることを勧められたが、それを断り、イエズス会に入会。マカオで神学を終え、1608年長崎で司祭叙階。以後有馬領を中心に司牧活動に従事した。1614年禁教令発布に伴い、日本に潜伏、主に島原半島を中心として働き、信者の世話を行った。更に司祭不在の筑前、豊前を巡った。1632年小倉において逮捕され、長崎に送られ、1633年1020日西坂の丘にて逆さ吊るしの刑で殉教。

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年表  

年月日

殉教者名

殉教地・処刑方

備 考

1609・11・14

ガスパル西玄可

 妻ウルスラ

 長男ジョアン

生月(いきつき)・斬首 享年54
1613・10・7

高橋主水アドリアノ

 妻ヨハンナ

林田助右衛門レオ

 妻マルタ、

 息子11歳ヤコブ・17歳娘マグダレナ

竹富勘右衛門レオ

 息子パウロ

有馬の海岸・火刑
1614・6・5    荒川アダム 天草・斬首
1619・10・6 ジョアン橋本太兵衛他51名 京都・六条河原・火刑

男26名女26名

内子供11名

 〃・10・15 ディエゴ加賀山隼人 小倉・斬首 享年54
1623 ジョアン原主水 江戸品川宿、札の辻・火刑
1624・2・16 フランシスコ遠山甚太郎 広島・斬首 享年24
1627・2・28 パウロ内堀作右衛門 雲仙・湯壷
1629・1・12~13 甘粕右衛門ルイス 米沢(北山原)・斬首
1633・10・20 中浦ジュリアン 長崎・西坂の丘・逆さ吊るし 享年64
1936・1・30 加賀山みや 熊本禅定院
1637・6 金鍔次兵衛トマス神父 長崎西坂の丘・穴吊るしの刑 享年35
1639・7 ペトロ・かすい岐部神父 江戸・穴吊るしの刑・惨殺 享年52