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<シリーズ>188名日本殉教者列福の推進
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| ①ペトロかすい岐部神父の殉教 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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ペトロ岐部は豊後国(大分県)国東半島にある岐部村に1587年ごろ生まれた。関が原の戦いで西軍にくみした大友軍は破れ、その国を失った。岐部一族もそれにつればらばらに散り、ペトロは有馬のセミナリオに送られた。セミナリオ卒業後数年教会で同宿(カテキスタ)をしていたが、徳川家康の禁教令発布とともに1614年マカオへ追放された。マカオで司祭に叙階される可能性が少ないのを知り、インドのゴア、更に駱駝の隊商とともにシルクロードを歩き、聖地を訪れ、更にローマまで行った。ローマで司祭に叙階され、イエズス会に入会し、ポルトガルを出立、マカオに戻った。しかし日本は迫害が激しく、司祭が日本に潜入するのは容易ではなかった。 シャムのアユタヤで待機していたが、日本入国の可能性がないと分かるや、フィリッピンに渡り、ルパング島で船を建造し、同僚の松田神父と共に鹿児島沖まで漕ぎ着けた。長崎は1628年頃より地獄の様相を示しており、そこに働くのは不可能に近かった。岐部神父は東北に宣教の拠点を変え、水沢を中心として信者を訪問し、励まし助けた。島原の乱後幕府は司祭探索に意欲を燃やし、遂に1638年水沢で捉えられた。江戸は小伝馬町の牢に送られ、拷問を受けたが、ついに転ぶことがなかった。逆さつるしの刑にあっても他の同宿を励ますことを止めないので、最初に殺された。1639年7月のことであった。享年52歳。 |
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| ②―有馬の殉教者―高橋主水アドリアノと他の7名 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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1612年、幕府は天領に禁教令を発布した。これにすぐ反応して迫害に踏み切ったのは、皮肉にもキリスト教が一番盛んであった島原半島であった。領主の有馬直純は保身の政策をとり、幕府の威光におもねるべく、まず家臣の追放に踏み切った。更に1613年には8名の重臣を呼び、信仰を捨てるように強要した。内3名はどうしてもその意向に添えない旨を宣言し、死刑の宣告を受けた。高橋主水アドリアノとその妻ヨハンナ、林田助右衛門レオとその妻マルタ、息子11歳のヤコブと17歳の娘マグダレナ、竹富勘右衛門レオと息子パウロの8名であった。1613年10月7日火曜日、8名は有馬の海岸まで連行され、そこに立てられた十字架にくくりつけられ、火刑を受けて殉教した。いずれも有馬家の重臣であった。マグダレナは若い身を貞潔の誓願で神に捧げていた。ロザリオの祝日にあたっている殉教であるので覚えやすい。(図は「不思議のメダイ」ホームページより) 関連リンク<A> <B> |
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| ③ ―米沢の殉教者― 甘粕右衛門ルイスとその仲間― | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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米沢地方には、イエズス会とフランシスコ会の司祭が働いていて、3千人余りの信者がいた。米沢教会の中心人物は甘粕右衛門ルイスであった。甘粕家は上杉譜代の家臣であり、上杉会津移封の際には右衛門の父は白石城主であった。ルイスは談義者と呼ばれ、米沢の共同体の責任者であった。1624年上杉景勝が死亡するまでは、上杉藩は目立った迫害を行うことはなかった。しかし、景勝死亡を機に、幕府は圧力を若い定勝に加え、右衛門とその仲間を逮捕せざるを得なくなった。1629年1月12日から13日にかけてのこと、右衛門とその仲間は逮捕され、北山原刑場において斬首、殉教した。彼らの血は雪に埋もれていた刑場を赤く染めた。 |
北山原刑場 |
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| ④―ジョアン原主水― | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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【江戸大殉教の図・馬上が原主水】 |
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| ⑤―天草の殉教者、荒川アダム― | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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荒川アダムはいつの時からか、天草志岐教会で多くの奉仕の仕事をしていた。1614年幕府の命令で全ての司祭たちが海外に追放された時、天草の教会の世話を最後の神父はこのアダムに任せた。彼ははや70余歳であった。司祭不在の教会の管理から洗礼の執行、病者訪問、死者の埋葬、葬儀などできる限りの仕事をこなしていた。特に大きな仕事は信者の世話であり、最大の奉仕は主日の奉仕であった。集会祭儀を行い、信者を霊的に高めるように最大の努力を払っていた。 しかし、迫害の手は天草全土に及び、まず目をつけられたのは、教会の中心人物である荒川アダムであった。彼は捕縛され、尋問を受け、拷問された。しかし、この老人はいかなる拷問にも決して信仰を捨てるとは言わなかった。ついに役人は業を煮やし、せめて孤独の中に閉じ込めれば失望するだろうと考え、一軒の家に幽閉した。彼はこれを一人で神を想う良い機会と考え、益々意気を高めた。これでもう仕方がないと諦めた役人は、彼に死刑を言い渡した。 1614年6月5日早朝、朝まだ暗い内に連れ出され、刑場で首を切られて殉教した。遺体には石がくくりつけられ、海中に沈められた。荒川アダムは、迫害にある天草の信者の模範となり、励ましとなった。 関連リンク<A> <B> |
【天草の崎津天主堂】
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| ⑥―京都の殉教者― | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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初期の頃より日本の宣教師は、京都の宣教を大切にした。そのこともあり、京都は1614年の迫害開始にあたり、最初に試練を受ける場所となった。司祭や主だった指導者は京都を追放された。それでも熱心な信者は京都に残り、教会を守った。 クリスマスを祝ったすぐ後に、1619年1月10日キリシタンの町(ダイウス町)は役人に取り囲まれ、信者は捕えられ、投獄された。7月には京都の信者の中心人物であったジョアン橋本太兵衛とその家族が捕えられた。太兵衛の家族は、妻のテクラと5人の子供であり、テクラのお腹の中にはもう一人の子供がいた。 10月5日、27本の十字架が六条河原に準備された。翌6日、殉教者たちは山車に乗せられ、京都市内を引き回され、六条河原に到着した。十字架にくくりつけられ、火が放たれ、殉教した。総勢52名、内男子26名、女子26名、しかもその中で子供の数は11名。女子供が多いのが、京都の殉教の特徴である。感動的な殉教の場面をこの短い紙面で紹介することは不可能である。拙著「キリシタン地図を歩く」を参照されたい。 |
【殉教するテクラとその子供たち】
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| ⑦―広島の殉教者―フランシスコ遠山甚太郎正信― | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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遠山甚太郎は1600年生まれ、和歌山においてキリスト教と出会い、洗礼を受けた。和歌山にキリスト教を伝えたのはフランシスコ会の神父であり、遠山家は熱心な信者となり、甚太郎はフランシスコ会第三会会員となり、「帯の組」(コルドン)に属した。後に迫害の最中司祭不在でも、信者の信仰を保たせたのはこの「帯の組」であった。この組織なしに東北のキリシタンについては語れない。 1619年、浅野長晟(ながあきら)転封に従って和歌山より広島に移った。広島は前任者福島正則がキリスト教に好意的であったこともあり、教会は盛んであった。しかし、1623年三代将軍家光就任とともに、その威光を内外に示すために江戸札の辻においてキリスト信者を一斉に処刑に付した。これを契機に広島にも迫害が激しくなった。
関連リンク<A> <B> |
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| ⑧―小倉の殉教者―ディエゴ加賀山隼人 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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1566年加賀山隼人は摂津国高槻に生まれた。10歳の時にフロイス神父より受洗。高山右近の家臣として文武、特に信仰に励む。右近は1580年改易となり、隼人はキリシタン大名蒲生氏郷を頼って会津若松に赴いた。氏郷の死後、丹波の領主細川忠興に仕えた。関が原の戦い(1600)の後、九州に下り、中津においては、郡奉行として近郊一帯をキリスト教化するのに一役かった。小倉に移り住み、細川家の家老職を果たす。1614年徳川禁教令が出され、主君の細川忠興は度々隼人に棄教を迫った。「時勢に順じては・・・」という忠興のことばは彼を説得することはなかった。また、「心で信じていればそれでよいのではないか」ということばも彼を納得させなかった。堅固な彼の意志を覆すことが出来ず、忠興は隼人処刑を決定。1619年10月15日、小倉において斬首、殉教した。享年54歳。 |
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| ⑨雲仙の殉教者-パウロ内堀作右衛門― | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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内堀作右衛門は有馬家に仕えた武士。主君晴信が不祥事件を起こして切腹、嫡男直純は棄教、1613年以降有馬領では迫害がおこった。直純が日向領に国替えとなった時に、作右衛門が棄教した主君に随行することを好まず、武士を捨てて百姓となった。有馬領の本格的迫害は1623年よりであり、三代将軍家光就任とともに諸大名に迫害を迫った。1627年棄教を迫られた作右衛門は3人の息子と共に捕らえられ、同年2月21日三人の息子は他の12名と共に手の指を切断され、パウロの眼前で首に石をつけられて海中に投げ入れられた。その後作右衛門も両指を切られ、額に「切」「支」「丹」と焼印された。次いで作右衛門とその仲間15名は雲仙に送られ、湯壷のそばに立たされ、一人ずつ湯壷に投げ込まれて殉教した。1627年2月28日のことである。 |
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| ⑪ガスパル西玄可(にしげんか)とその家族 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| ガスパル西は1556年頃生月(いきつき)に生まれた。幼少にして受洗、妻ウルスラと共に殉教者一族を築いた。次男トマス兵次は有馬のセミナリオに学び、1614年国外追放されたが、司祭になる望みを絶ちがたく、マニラに渡り、ドミニコ会に入会、司祭に叙階されて日本に潜入帰国。1634年殉教。現在聖人の位にあげられている。平戸の領主松浦鎮信(ちんしん)は反キリスト教であり、1609年11月生月の中心人物西玄可に棄教を迫った。棄教を拒んだガスパルに死刑の宣告が言い渡された。11月14日処刑場に連行され、斬首された。妻ウルスラと長男ジョアン又一も連れ出され、連行途中でウルスラは後ろから刺し殺され、ジョアンはひざまづいて刀を受けた生月ではガスパル様と呼ばれて今も尊崇を受けている。 | ◆ガスパル西玄可の一家が処刑された地。 中江ノ島を見下ろす黒瀬の丘に「ガスパル様」の石積みの墓の横にカトリックの有志が建てた記念碑がある。周りはクルスの丘公園となっている。
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| ⑫―熊本の殉教者―加賀山みやの殉教 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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| ⑬中浦ジュリアン-長崎の殉教者 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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