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◆◆◆司教講話集2◆◆◆
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溝部 脩 司教 司教叙階に際して二つのことを話します。その一つは、どうして私が説教する破目になったかということ、二つ目は典礼文の中で話される司教への勧めの文のことです。 その一でです。どうして私がこれを引き受けるようになったかということです。答えは長崎教区と仙台教区、ひいては高見被選司教様と仙台とのかかわりがあるからだということです。 時は慶長時代に戻ります。伊達政宗の使節としては支倉常長とフランシスコ会のソテロ神父がローマに送られたのは、1613年のことでした。彼らは月の浦港を出港して、メキシコ、スペイン、ローマへと長い旅をして、ローマ教皇に会い、帰国しました。7年ぶりに戻った日本は、迫害の最中でした。マニラではや詳しいことを彼らは知っていた筈です。マニラより長崎に到着した船で、更に東北の教会の実情と迫害のことがはっきりしました。 帰国した支倉常長一行の中にキリシタン武士がいました。彼らの中の数名は迫害下の東北に戻るのを好まず、そのまま長崎に留まりました。「支倉六右衛門の随行員に黒川市之丞、同六右衛門、松尾大源の三人があり、ローマからの帰途長崎に立ち寄ると、奥州における迫害の噂が耳に入った。三人は万一の場合を慮り、格好な隠れ場を探して、之を木場に見出した」(切支丹の復活上 317頁)。三ツ山教会出身の高見被選司教様はその先祖の血を辿ると東北人ということになります。 先日二本松の殉教祭に参加していますと、殉教者の名簿に町田宗加という名を見出して、ああ長崎の乙名(町年寄)であった宗加は迫害の中、流れ流れてこの東北の地で殉教したと思うと感無量でした。 1614年、全国迫害令が起きた時、まず京都、大阪に迫害が始まりました。その時司祭たちとシスター方、高山右近や内藤如安といった主立った人々は長崎に流されました。他の京阪の主立った71名は津軽に流されました。ところが津軽は大飢饉に見舞われ、助けを司祭に求めました。彼らは長崎の信者に義捐金を求め、米を津軽に送ったのでした。この時依頼長崎と東北は深くつながり、東北の本格的な宣教が始まったのでした。 東北と長崎の関係をあげればきりがありません。近くは仙台より早坂司教様が長崎に来て、浦河司教様が長崎より仙台に行きました。 二つ目です。昔も今も変わることのない事実を、私たちは昔の教会の出来事の中に、見ることができるのです。カトリック教会は時代と場所を越えてあるということです。イエス様はペトロとその仲間に按手して教会を牧する任務を与えました。400年前も按手を司教からうけた司祭たちが日本教会のために全力をつくしました。「神と神秘の分配者となって下さい」と今日勧められますが、この司教の権能があって初めて、教会が活気づけられるのです。按手によって聖霊がこの司祭を恵みで満たします。そして、中から聖別し、新しい使命へとつくりかえていくのです。同様にこの天主堂も聖霊で充満すのです。カトリック教会のカトリックたる所以は、秘跡的教会であり、聖霊が人を揺り動かして世界をつくりかえていくのを信じていることです。 カトリック教会のもう一つの特徴は、使徒伝来の教会です。イエス様の按手は使徒から司教へと2000年伝えられて参りました。古い伝統を生きる教会は、聖霊を受けた人たちを通して、常に新しく生まれ変わって参りました。今新司教の叙階を通して、古い伝統が新しい形に生まれ変わって、現代の人々に新しい息吹を与えるのです。 そのために、教会は新司教に勧めます。「折が良くても悪くても、神のことばを述べ伝え、忍耐をもって励まし、教えてください」。 それでも、この難しい時代に新しい福音の息吹を伝えるのは至難の業です。必ずや挫折や無力感を実感することでしょう。だからこそ、典礼文は次の勧めを行っています。「わたしたちの弱さをその力によって強めて下さる聖霊の力に頼って牧者の任務を果たすことがで、きます」。司教としての弱さや限界こそは、師であるイエス様の生き方を生きるその原点に戻ることを思い出させております。
長崎教区にとっては最高の喜びの日と存じます。日本教会にとっても大きな喜びの日です。共に喜びを分かち合いながら、叙階ミサに与ることとしましょう。
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溝部 脩 司教 ワールド・ユースデイが近づいています。皆様は、どのような気持ちでそれに向かっていることでしょうか。私についていえば、今年しか参加するチャンスには恵まれないと思ったので、思いきってトロントに行こうと決めました。次の大会では70歳を超えていますので、体力的に無理かと思ったからです。今は、どんな青年と知り合えるか、共にみことばを分かち合える喜びが持てるかなどと、考えるだけでも胸がわくわくしています。 ワールド・ユースデイは“信仰の旅”と枠付けされています。カナダに行けば良いとか、世界体験旅行を一つ増やすといった種類の旅ではありません。トロントに向けて“信仰の旅”を歩むのです。トロントに行かない青年のためには、青年大会を日本で行う計画が進められています。世界の青年がトロントで、又世界の隅々で集うことになります。何と素晴らしいことでしょう。目覚めた青年たちが、より目覚めを確かめるために旅を始めるのです。“成功は準備に比例する”と言われます。わくわくしながら、しかし、決して時間を無駄にせず、しっかりとした確かな歩みを共にすることが肝要です。 「あなたたちは地の塩である」が今回のテーマの一つです。この聖書の個所の前文を読んでいきますと、「貧しい人は幸い」とうことが話されています。「あなたたち」とは、貧しい人たちのことです。貧しい人とは、信仰をもって生き、謙虚に頭を下げ、人をあわれむ心、優しさを持つ人達のことです。貧しさを求める人は「地の塩」となります。目覚めた青年たちとは、人々苦悩を背負い、人々に喜びを与えつづけ、「貧しさ」を求める人たちです。 「貧しさ」を愛する青年たちは、この世にあって塩となります。塩は目には見えなくても、食べ物に味をつけ、私たちが生きている世界を豊かにします。青年たちはこの世に生きて、それを通してこの世界に新しい希望と喜び、味わいをもたらす存在となるのです。そのためには、何よりも味わいある生き方をすることでしょう。あるいは味わいある生き方を学ぶことです。社会の中にあって、中から社会を潤す青年、この人たちが「地の塩」です。大会準備の段階から、どのように人々を喜ばせることができるかを問うてみたいものです。 中から世界を潤すのも青年であるとしたら、外に見える形で世界を引っ張っていくのも青年なのです。これが「世の光」という意味になります。若い力は澄んだ目で現実をしっかりとみつめ、妥協することなく正しいことを正しいとして生きることを可能にします。
「わくわくして待つ」を題名にした手紙です。わくわくする心があれば、体験を通して新しい息吹を吸収し、一回りも、二回りも大きく自分を成長させていくことでしょう。 |