22年間の長きに亘り、仙台教区長として働かれたライムンド佐藤千敬司教様は、去る11月12日、午後5時45分、光ケ丘スペルマン病院において、多臓器不全のため逝去なさいました。御歳76歳でいらっしゃいました。平成10年、ご病気により、72歳にして教区長職を辞任なさた司教様は、東仙台の「司祭の家」に住まわれ、4年有余に渡って、静かに療養生活を送っておられました。
「宮城県カトリック教会百年の歩み」によりますが、佐藤司教様は、大正15年3月31日仙台市に生まれ、幼少期を郡山市で過ごされ、中学時代に仙台へ引っ越し、仙台二中から海軍兵学校に進まれましたが、卒業を2ヵ月後に控えて終戦となり、復員して東北大学法文学科経済科に入学なさいました。在学中に角五郎町教会(現西仙台教会)において渡辺吉徳神父様から洗礼を受けられ、昭和24年大学卒業後、聖ドミニコ修道会に入会、昭和28年にはカナダはオッタワ市にあるドミニコ会神学校に入学、昭和34年、同地において、初代仙台教区長であられたルミユ大司教様により司祭に叙階されました。
帰国後は、清泉女子大学助教授、ドミニコ会修練長、昭和40年には、「仙台カトリック学生の家」の主管者となり、日本カトリック学生連盟、仙台学連の指導司祭としてご活躍、昭和46年には北仙台教会敷地内に「仙台ロゴス研究所」を開設して、その主管者となりました。しかし昭和48年、小林司教様の要請によって仙台教区事務局長に就任、司教の片腕となって教区事務所の地道な仕事に携わり、また仙台教区カテキスタ会の指導司祭としても働かれました。そして3年後の昭和51年3月20日に、元寺小路司教座聖堂において、その日のためにカナダから駆けつけたレミユ大司教、その他日本各地の司教様方のご参席の下、駐日バチカン大使ヒッポリト・ロトリ大司教様によって司教に祝聖され、51歳にして第4代仙台教区司教に抜擢されたのでした。
そして早速その年の7月には、仙台司教として「激動時代に生きる信じる者」と題し、第2バチカン公会議の方針に従い、教会内の改革を通して新しい時代に即応した教会の在り方を模索する必要を訴える檄文を、カトリック新聞紙上に発表しておられます。
それから22年の年月が経ち、仙台教区長を辞任なさった平成10年頃には既に、健康が決してよい状態にはなかったようです。しかし最後まで、与えられた任務を忠実に果たそうと努力しておられました。
教区長という重責の上に、宗教法人の代表役員、学校法人、社会福祉法人、財団法人などの理事長職も兼任なさっておられたため、恐らく言葉では言い表すことができないほどのご苦労を味わわれたであろうと想像いたします。特に時代の移り変わりに伴い、各々の法人にとって、次第に経営・存続の難しさという問題が生じて参りましただけに、病気を持っておられた事は大変な重荷となったであろうと思われます。そのためローマには、辞任の意志を伝えておられたようでしたが、なかなか受け入れていただけなかったようです。
私は、その頃の平成10年4月に、地方の教会勤務から、33年振りに佐藤司教様の総代理として仙台に赴任して参りました。その時、司教様が教区長辞任のための手続きがスムーズに行くように願っていると、私に漏らされたことがありましたが、平成10年6月ついにローマの許可を得て、教区長職を解かれたのでした。
私は、その頃からもう4年有余、生活を共にして参りましたためか、今日のお通夜でお話をするように依頼されたものと思っております。果たして適任かどうか心配なのですが、いくつか率直にお話申し上げて、私の務めを果たさせて頂きたいと思います。
司教様としての佐藤司教様は、きわめて忠実のお仕事をなさった方だと思います。無口なお方だけに、ちょっと取っつきにくい感じがありましたが、仕事となりますと、いい加減なことでは満足なさらず緻密と思えるほど慎重に順を踏んで事を進められるのが常でしたから、それが取っつきにくい感じにさせたのではないかと想像致しております。要するに理性的に物事を進められるのが一番お好きなタイプでいらっしたと思います。細かいメモをいつも大切にしておられたのがとても印象的でした。
司教様は、任された仙台教区が決して裕福ではなかったので、部下の生活、面倒を見るという重要な責務があることを、経済学部ご出身なだけに敏感にキャッチなさっておられたと思います。貧しくてもみんなに納得してもらえるような生活ができるようにと心配なさり、出来上がった構想が、今でも教区司祭団で用いられていることから、司教としての大事なお仕事の一つを確実にやって退けられた一つのご功績であったと思っています。つまり私ども教区司祭団にとって感謝すべき解決であったと思っています。
普通なら、つい口に出してしまいそうな軽口など、耳にしたくてもできませんでしたが、これも慎重さと責任感の表れではなかったかと思います。とても我慢強いお方でした。
「武士は喰わねど高楊枝」と言いますが、武士はこうあらねばというような、頑固というか無骨なところがおありだったと思います。ですから美味しい料理を作って皆さんに振る舞い、喜んでもらおうというようなお気持ちは、はっきり申し上げて、まずなかったのではないかと思います。それがまたつき合いの悪さみたいに受け止められてしまう、損なところがおありだったと思うのですが、どうしてもできない事であれば、何ともしょうがないことだと思うのです。それにしてもねじり鉢巻きをして、「これが我が輩に自慢料理だ!」と言って、ご馳走してもらえたら、さぞかし嬉しかったろうなあと今にして思うのです。
そんなことから、つい船越保武氏の作品「原の城」とか「ダミアン神父」像の姿を思い浮かべてしまうのですが、佐藤司教も全力投球をなさってこられたに相違ありませんが、人間的な限界とか、死因と言われる「多臓器不全」という、自分の意志だけではなんともできない状況にあって、孤独を選び、人から良く評価されることも敢えて望まず、ただひたすら現実の状況に甘んじ受けるように努力なさってこられました。このことに対し、本当にあなたは立派だった。よくぞ頑張ったと温かい目を注いでくれる人もいるでしょうが、反対に「何だあの人は!」と言う目で見る人もいたかと思います。私自身も複雑な思いがあります。しかし、佐藤司教様のそのお姿は、最期まで耐え忍ばれたキリストの後を追うものの姿を彷彿とさせたと言っても過言ではないと、今にして思います。本当に忍耐強いお方でした。
最近教会関係では創立50周年記念式典があちこちで行われておりますが、その際発行されている記念誌の中に、信者さん方とほほ笑みを交わしておられる若き日の司教様のお姿が写っているのを見ます。よくお話の中に、軽いユーモアを入れておられたのを懐かしく思い起こしもします。
今ご遺骸のお顔を拝見しまして、何といいお顔をしておられることかと感心しています。皆さんも必ずやそうお思いになるに違いありません。このようなお顔こそ佐藤司教様本来のお顔だったと、改めて思っているところであります。
ところで司祭の家の賄いさんである梅津淑子さんは、このような司教様のことを良く心得ておられ、本当によくお世話してくださったものと、同居人の私たちは感嘆しております。最期の最期までお世話になりました。本当に感謝したいと思います。佐藤司教様もどれだけ感謝しておられることでしょう。まだ残っている同宿人もおりますので、これからもよろしくお願い致したいと思います。
さてこれまで、長々と、私個人の思い出を中心に、率直にお話しして参りましたが、舌足らずの表現で故人を傷つけることがあったら、大変申し訳ないと思うところもあります。こんな程度のものでしかない私に免じてお許しくださるよう故人にも皆様にもお願い申し上げ、故人の永久の安息を祈りつつ、また私たちのために祈って下さるようお願いしつつ、お通夜の祈りに移りたいと思います