今読まれたマルコ福音書(16・1−7)で、わたしたちは聞きました。「あなた
たちは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。」神の御子が人類を、いえ、わたしたちをその罪から、あるいは、その実りである死からあがない出すために、その償いとしてご自分のいのちをささげてくださり、墓に葬られました。しかし、十字架につけられたナザレのイエスは復活なさって、もうその墓にはおられない。墓の中にとどまる方ではないと天使は告げます。
この「復活徹夜祭」に教会は、神のいのちに新しく生まれ変わる兄弟、公に「神の子」としてこの共同体に加わる人たちを迎えます。世のあがないのために全部をささげつくしてくださり、死んでくださったイエスさまと結ばれ、今までの肉の生き方や罪をおかす生き方に死んで、新しく「神のいのちに生きる者」として生まれ変わる、それが洗礼の意味です。おととい、そしてきのうと記念してきた「十字架」は、父なる神が、先にわたしたちのためにほんとうによくはからってくださった、その愛の極みを表すものです。わたしたちの罪をすべてゆるしてくださるものとして、わたしたちは心からよろこんでありがたく受けとめます。そしてそれが、わたしたちの「信仰」です。この信仰をもって洗礼を受け、きょうここに、新しいいのちを歩んでいこうとする人たちが加わります。
それでは、「洗礼」とはどういう意味をもっているのでしょうか?
そのことが、今読まれた、「使徒パウロのローマの教会への手紙」(6・3−11)にあります。洗礼を受けるのは、「キリスト・イエスに結ばれるため」とパウロは書いています。つまり、洗礼を受ける者、すでに受けた者も、その人たちはキリストとしっかり結ばれている者になったわけですね。さらにもうひとつの意味があって、それは、「キリストの死にあずかるため」に洗礼を受けるということです。わたしたちに罪のゆるしを与えるために、わたしたちとこの世の罪を全部引き受けて死んでくださったキリストに結ばれて、わたしたちも死んだ者となるのです。「死にあずかる」、死んだ者となるとはどういう意味でしょう。簡単に言えば、罪をおかすこととは無縁の者としていただくということです。
「十字架につけられて死んだイエスさまは、復活なさった。」それは、わたしたちの信仰の一番の中心です。復活のキリストにしっかりと結ばれて新しいいのちを生きるように、洗礼をとおして、わたしたちはすでに新しいいのち、復活のいのちにあずかる者としていただいた、洗礼は、そうしていただく者となるよろこびをもたらします。洗礼を受けてキリスト信者となったということは、倫理的に考えてこれこそが正しいとして選択した結果ではありませんし、思索に思索を重ね、崇高な考えの上に、これが最高だということで選んだものでもありません。わたしたちを先に愛してくださった御父、そして、その愛を余すところなく十字架に示してくださったその愛に打たれ、その愛に応えたいと思うから洗礼を受け、信者となったのです。そのような者となるように、御父はわたしたちを招いてくださったし、キリストは呼んでくださった。そのように生きる者となるように神ご自身がはたらいてくださるのです。きょうこれから、洗礼式に続いて「堅信の秘跡」が授けられます。そこで象徴される、「神の愛そのものである聖霊」が注がれて、神さまはわたしたちを導いてくださるのです。わたしたちを愛し、わたしたちのためにすべてにおいてよくはたらいてくださっている主なる神、「父と子と聖霊」に、心をひとつにして感謝をささげましょう。そして、わたしたちが新しい生き方にすすんでいる者としていただけるように願いましょう。
きょう、「光の祭儀」から始まりました。洗礼を受けて「光の子」としていただいたのです。わたしたちは、「光の子として生きる者」となります。光の子として生きるとはどのように生きることでしょう。「もう、罪はおかしません。悪いことはしません。」そのような考えではないのです。わたしたちが生きていく一番の中心は、「御父のお心を生きる」ことです。イエスさまが、「わたしの思いのままではなく、み旨のままに」とおっしゃった、その心をわたしたちはいただいて、「何が主に喜ばれることか、それを吟味しながら」、それを選びとっていく生き方です。「罪をおかさないようにしましょう。悪いことはしないようにしましょう。」そんなケチなことではありません。わたしたちの生き方は、その中心となるのは、いつでも、そして徹底的に、御父の望んでおられること、主によろこんでいただけること、それを目指して歩んでいくことです。
きょう、「復活徹夜祭」にあたり、すでに聖霊の導きのよろこびを味わっているわたしたちも、共同体に新しく加わる人たちと心をひとつにして、心から、神に賛美と感謝をささげていきたいと思います。
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