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     ◆平賀司教講話集◆

 

 

目  次

◆司教就任後の初ミサ説教  2006/3/5 四旬節 第1主日   カテドラル(元寺小路教会)
復活徹夜祭 2006/4/15
復活の主日  2006/4/16

平賀徹夫司教初ミサ説教

 

 平賀徹夫と申します。(笑い)。昨日、仙台白百合学園の講堂で司教に叙階されました。

 司教空位の間、皆さんと共に一日もはやく仙台教区に司教を迎えることが出来ますようにと祈ってきました。その結果がこうです(笑い)。私を司教に祭り上げておいて、したからはしごをはずさないで下さい(笑い)。

 司教就任にあたって、昨年東京補佐司教となられた幸田和生司教が叙階のときのモットーとされた、聖アウグスティヌスの言葉を私も使用させていただきます。それは「私はあなた方のために司教であり、あなた方と共にキリストの信者です」という言葉です。「あなた方のために司教である」ということは、「あなた方に仕えるために私はある」ということです。私はキリストのもとに集まってきた人たちの接着剤、のりになれたらいいと思っています。

 第二に「信者である」ということについて、今日は四旬節第一の主日で、洗礼志願式を行うのですが、洗礼志願者は今日から心をこめて信者としての決心を高め、教会の人々と一致していく期間であり、すでに洗礼を受けている人たちは改めてそれを思いおこす期間です。皆が信者としてこれから一緒に歩んでいくのであり、司教である私は皆さん方を結ぶのりとしてそこにいるのです。

 洗礼とは肉の汚れを取り除くことではなく、神に正しい良心を願い求めることです。神に正しい良心を願い求めるためには信者が一致して進んでいくことが大事です。

イエスはヨハネから洗礼を受けた後に『霊』によって荒れ野に追い出されます。荒れ野は現実の世界、砂漠ということも出来る。イエスは毎日毎日辛く悲しいことを経験します。イエスはサタンから「誘惑」を受けました。「誘惑」はギリシャ語では「試練」とも訳されます。現実の世界を「誘惑」にしてしまうか、それとも「試練」として受け入れることができるかどうかは、私たち自身の決断にかかっているのです。そして、私たちが困難に遭遇するのは避けられないけれども、それを「誘惑」にしてしまうことなく、「試練」にして下さい、と共に祈りましょう。

 私はあなた方のために司教であり、あなた方と共に信者です。私はのりになり、あなた方と共に一体となり一緒に歩みたいと願っています。

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復活徹夜祭ミサ説教             2006.4.15

 

今読まれたマルコ福音書(16・1−7)で、わたしたちは聞きました。「あなたたちは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。」神の御子が人類を、いえ、わたしたちをその罪から、あるいは、その実りである死からあがない出すために、その償いとしてご自分のいのちをささげてくださり、墓に葬られました。しかし、十字架につけられたナザレのイエスは復活なさって、もうその墓にはおられない。墓の中にとどまる方ではないと天使は告げます。

この「復活徹夜祭」に教会は、神のいのちに新しく生まれ変わる兄弟、公に「神の子」としてこの共同体に加わる人たちを迎えます。世のあがないのために全部をささげつくしてくださり、死んでくださったイエスさまと結ばれ、今までの肉の生き方や罪をおかす生き方に死んで、新しく「神のいのちに生きる者」として生まれ変わる、それが洗礼の意味です。おととい、そしてきのうと記念してきた「十字架」は、父なる神が、先にわたしたちのためにほんとうによくはからってくださった、その愛の極みを表すものです。わたしたちの罪をすべてゆるしてくださるものとして、わたしたちは心からよろこんでありがたく受けとめます。そしてそれが、わたしたちの「信仰」です。この信仰をもって洗礼を受け、きょうここに、新しいいのちを歩んでいこうとする人たちが加わります。

 それでは、「洗礼」とはどういう意味をもっているのでしょうか?

そのことが、今読まれた、「使徒パウロのローマの教会への手紙」(6・3−11)にあります。洗礼を受けるのは、「キリスト・イエスに結ばれるため」とパウロは書いています。つまり、洗礼を受ける者、すでに受けた者も、その人たちはキリストとしっかり結ばれている者になったわけですね。さらにもうひとつの意味があって、それは、「キリストの死にあずかるため」に洗礼を受けるということです。わたしたちに罪のゆるしを与えるために、わたしたちとこの世の罪を全部引き受けて死んでくださったキリストに結ばれて、わたしたちも死んだ者となるのです。「死にあずかる」、死んだ者となるとはどういう意味でしょう。簡単に言えば、罪をおかすこととは無縁の者としていただくということです。

「十字架につけられて死んだイエスさまは、復活なさった。」それは、わたしたちの信仰の一番の中心です。復活のキリストにしっかりと結ばれて新しいいのちを生きるように、洗礼をとおして、わたしたちはすでに新しいいのち、復活のいのちにあずかる者としていただいた、洗礼は、そうしていただく者となるよろこびをもたらします。洗礼を受けてキリスト信者となったということは、倫理的に考えてこれこそが正しいとして選択した結果ではありませんし、思索に思索を重ね、崇高な考えの上に、これが最高だということで選んだものでもありません。わたしたちを先に愛してくださった御父、そして、その愛を余すところなく十字架に示してくださったその愛に打たれ、その愛に応えたいと思うから洗礼を受け、信者となったのです。そのような者となるように、御父はわたしたちを招いてくださったし、キリストは呼んでくださった。そのように生きる者となるように神ご自身がはたらいてくださるのです。きょうこれから、洗礼式に続いて「堅信の秘跡」が授けられます。そこで象徴される、「神の愛そのものである聖霊」が注がれて、神さまはわたしたちを導いてくださるのです。わたしたちを愛し、わたしたちのためにすべてにおいてよくはたらいてくださっている主なる神、「父と子と聖霊」に、心をひとつにして感謝をささげましょう。そして、わたしたちが新しい生き方にすすんでいる者としていただけるように願いましょう。

 きょう、「光の祭儀」から始まりました。洗礼を受けて「光の子」としていただいたのです。わたしたちは、「光の子として生きる者」となります。光の子として生きるとはどのように生きることでしょう。「もう、罪はおかしません。悪いことはしません。」そのような考えではないのです。わたしたちが生きていく一番の中心は、「御父のお心を生きる」ことです。イエスさまが、「わたしの思いのままではなく、み旨のままに」とおっしゃった、その心をわたしたちはいただいて、「何が主に喜ばれることか、それを吟味しながら」、それを選びとっていく生き方です。「罪をおかさないようにしましょう。悪いことはしないようにしましょう。」そんなケチなことではありません。わたしたちの生き方は、その中心となるのは、いつでも、そして徹底的に、御父の望んでおられること、主によろこんでいただけること、それを目指して歩んでいくことです。

 きょう、「復活徹夜祭」にあたり、すでに聖霊の導きのよろこびを味わっているわたしたちも、共同体に新しく加わる人たちと心をひとつにして、心から、神に賛美と感謝をささげていきたいと思います。

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復活の主日ミサ説教               2006..16

きょうは主の復活の祭日で、わたしたちキリスト信者にとって一番の祭日です。主が死者の中から復活なさった、とても大きなお祝いです。“皆さま、主のご復活、おめでとうございます!”

「主キリストは復活された」、これが、わたしたちの「信仰の核」、中心です。復活がなければ、キリスト教ということはできません。現実であって真実なるこのことは、イエスさまの弟子、使徒の時代から受け継がれてきたものです。この三日間、わたしたちは、主の晩さんからご受難、ご死去、葬り、そして、きょうのご復活と、一連のながれを記念してきました。イエスさまは十字架にかけられて死にました。その死は、わたしたちの罪の償いとなるもので、わたしたちを罪から神のものとしてあがなってくださるための死であるという意味を、このながれの中で考え、味わってきました。もし、イエスさまのご受難が、十字架上の死ですべてが終わったとするならば、その死は、わたしたちの罪のゆるしのためのものであるという真意が単なるこじつけであったということで終わったかもしれません。でも、こじつけではなく、ほんとうに現実にあったことなのです。イエスさまの死は、わたしたち人間に罪のゆるしをもたらすためのもので、これはほんとうのことだったということを示すために、主ご自身が死から立ち上がってくださったのです。そして、「わたしは生きている」と、弟子たちに現れました。そのあと、弟子たちは大喜びで、「主は生きておられる」ことを伝えたのです。わたしたちの罪のために死んでくださったことも、わたしたちに罪のゆるしをもたらしてくださったこともほんとうのことだったと話したのです。そして、旧約聖書に預言されていたことや、イエスさまが生前おっしゃっていたことが真実だったことを告げ知らせました。罪のゆるし、救い、新しいいのちの中の生き方にわたしたちは呼ばれているという、その喜びを弟子たちは告げ続けたのです。そのときの弟子たちの喜びや興奮、安堵した様子が、二千年後に生きるわたしたちにも伝わってきますね。わたしたちも、この同じよろこびを次世代に伝えていく使命を持っています。わたしたちは、イエスさまの十字架の死によって罪のゆるしをいただき、神のいのちにあずかる者としていただきました。このことを、わたしたちは主日ごとに教会に集まって、イエスさまのご受難、ご死去、そしてご復活を記念しながら、わたしたちの神さまへの感謝と、イエスさまへの賛美を一緒にささげ、新しい生き方と、それを生きる力をいただきます。わたしたちは、主日ごとのミサを絶対ないがしろにしてはいけないのです。その感謝の祭儀があってこそ、また、それに参加してこそ、わたしたちはキリスト信者として生きる力をいただくのです。キリスト信者として生きるために、主ご自身が、「わたしは生きている。あなたたちと一緒にいる」という知らせを、わたしたちに確認させてくださるのです。

ミサは、わたしたちが「キリスト・イエスと一緒に御父にわたしたちのすべてをささげる」典礼なのです。わたしたちは、傍観者のようにそこにいるだけではもったいないのです。「典礼」は、わたしたちみんなが心をひとつにして、神さまに感謝の叫びをささげるものです。そしてその場所は、よろこびの声や思いを全部ささげるという場なのです。たとえば、ミサの奉献文の「聖別の祈り」を唱えたあと、司祭は、〜♪♪信仰の神秘♪♪〜とうたう、または唱えますね。そして参列者みんなで、「主の死を思い、復活をたたえよう。主が来られるまで」と唱えます。それは、わたしたちは、主が死んでくださったこと、復活なさったことを信じますということを、心をひとつにして叫ぶのですが、その中に込められている意味は、わたしたちは信じていますよということだけではなく、ラテン語の規範版によると、もっと深いニュアンスが込められているのがわかります。それは、キリストに向かって叫ぶ叫びで、直訳しますと、〜主の死を思い、復活をたたえよう〜は、「主よ、あなたが死んでくださったということを告げ知らせます。そして、あなたの復活を宣言します」という意味があるのです。最後の、〜主が来られるまで〜は、「あなたがおいでになるときまで」ということばになります。つまり、わたしたちの思いを叫ぶ叫びではなく、主に向けたもの、死んでくださり、復活なさったキリストに向かって叫ぶ叫びなのです。このミサ典礼は、信仰をもって、思いのたけのすべてを神さまにささげるという感謝の叫び、そこに集った者たちの感謝する声なのです。そうして、わたしたちは世の終わりまで、主が来られるときまでこの信仰を伝えていきます。新しい生き方に呼ばれている!ということを自覚しながら、そのたびごとに、あらためて確認しながらすすんでいくのです。

きょうの第二朗読、「使徒パウロのコリントの教会への手紙」(一コリント5・6b−8)に、「古いパン種をきれいに取り除きなさい」とありましたが、この「古いパン種」とは、どんなことをさしているのでしょうか? それは、キリストを知らなかったときの生き方のことで、その生き方を捨て去りましょうということです。わたしたちはキリストを知ったのです。キリストに呼んでいただいたのです。だから、キリストに結ばれた者として、わたしたちのもっている罪のすべてをゆるしていただき、新しい生き方に呼ばれた者、結ばれた者として生きていきなさいよとパウロは言っているのですね。わたしたちの生き方、信仰をもった生き方の中心はその一点です。キリストを知らなかったときのような生き方はもうしません!死という、ご自分のいのちを差し出された、この上ない、最大級の愛のかたちをもって、このわたしたちを新しいいのちに呼んでくださった方にわたしたちは結ばれて、御父への賛美と感謝をささげ続けます。

これからの一年、もっと近づけて、この一週間、「いつどんなときにもあなたと一緒に生きているよ」と宣言してくださった主に信頼して、さらに、主からの力をいただいて、この一週間を、これからの毎日毎日を、賛美と感謝をもって過ごす日々としたいと思います。心をひとつに合わせて、キリストをとおして、御父への感謝を今ここで一緒にささげましょう。

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前教区長 溝部脩司教講話集