◆日本カトリック教会の歴史◆
溝 部 脩
≪近代日本とキリスト教 U≫
V 昭和時代前期(1925-1945) 8/2更新
W 昭和時代後期(1945-1990) 8/2更新
明治維新は天皇を中心とする祭政一致の国家づくりを目指していた。従って外来の宗教、キリスト教は歓迎されるべきものではなかった。
テオドール・フォルカードは1844年5月、琉球に上陸、日本潜入の可能性を探った。1854年、アメリカ特派大使ペリー提督は、江戸において幕府と「 親和条約を結び、遂に日本は鎖国をといた。アメリカは悪評高い踏絵の廃止を日本に要求した。フランスも又、1858年「日仏修好条約」に調印、フランス領事が日本に着任し、ジラール神父が通弁として同行した。幕府は横浜、函館、長崎、神戸、新潟5港を開港した。ジラールは1862年、横浜に天主堂を建立した。
長崎には1863年、フューレが上陸、教会と司祭館建設に着手した。ほどなくベルナール・プチジャンも長崎を訪れ、大浦に天主堂が完成した。1865年2月19日、盛大な献堂式が行われ、日本26聖人に捧げられた。聖堂を見物する農民の中に“サンタ・マリアの御像はどこ”と訪ねた浦上のかくれキリシタンが居た。3月17日のことであった。キリシタンの発見であり、実に250年間、彼らは司祭なくして信仰を保っていたのであった。これを機に外海地方、五島、天草、平戸、今村(福岡)のかくれキリシタンが次々と発見されて、彼らは密に神父と連絡をとりあった。
復活のキリシタンは、当時まで行われていた仏寺での葬儀をことわったことにより、官憲と対立することとなった。浦上には当時四つの秘密教会があり、大浦より司祭が来て、教理を教えていた。1867年7月15日、最初の逮捕があり、キリシタンの問題の解 決がつかない間に、幕府は大政を奉還し、1868年1月3日には王政復古が実現した。浦上のキリシタン問題は未解決のまま明治政府に引き渡された。
明治政府は徳川幕府と、基本的にキリスト教に関しては何ら変わることはなかった。むしろ神道国家を標榜し、神道による日本統一を急いでおり、幕府にとっては邪宗門であるキリスト教を排除することで国体の一致を図った。
1868年1月25日、浦上のキリシタン戸主は審問され、4月7日戸主180名は棄教を迫られた。5月17日流罪決定。4010名のキリシタンは34藩に振り分けられた。第一団として中心的人物114名が、萩、津和野、福山に流された。1870年には第二団3394名が20藩に.流された。流罪のキリシタンの内、浦上に3年後、戻ったのは2911名であり、死亡者は613名であった。
浦上キリシタンの流刑は国際的非難を浴びた。政府は仏教、神道を通して皇道宣布をもりあげて、国民を天皇を中心にする国家体制にもっていこうと試みていたし、邪宗教、キリスト教という概念を植えつけた。折りしも、政府高官は1871年欧米視察に出発、行く先々で浦上キリシタンについて厳しい批判を受けた。歴訪中の彼らは、切支丹禁制解除を政府に求め、1873年2月になって切支丹 禁制の高札だけは撤去された。同年3月14日、長崎に戻る達しが浦上キリシタンに発せられた。しかし、禁教令が解かれたのではなく、ただ高札が撤去されたに過ぎず、国家の体質は反キリスト教であった。1873年にはカトリック信者は15,000名を数えた。
明治の初期、アメリカから多くの宣教師が渡来し、またロシア正教会の宣教師も早くから訪れた。多くの派は、日本で合流して、「日本基督公会」を結成し、どの教派にも属さない無教派主義を標榜した。新約聖書の和訳などの事業を手掛けた。しかし、高札撤廃を機にして、プロテスタント各派の独自の動きが活発になり、公会主義は崩れていった。プロテスタント教会には旧武士、士族が多く近づいた。ピューリタリズム的倫理観の色彩の強いキリスト教にこれらの人々はひかれた。この点でカトリックは異なっていた。プロテスタントが初期の宣教において日本で成功したのは、「文明の宗教」の印象を与えたことであった。また、日本政府も明治5年(1873年)以後、西洋文明を積極的に導入しようとしたこともあり、キリスト教への関心も高まったことにも原因があった。
プロテスタント各派の活動が目立つ時期である。長老派三教会がキリスト教における一致を目指して、「日本基督公会」を結成、横浜公会の流れをくむ「基督一致教会」は統合神学校を設立して日本人伝道者の養成に乗り出した。卒業生の中に植村正久がいた。しかし、高札撤廃を機に各派の活動が目立った。日本組合教会は士族階級、中小生産層へと働きかけた。新島襄が同志社を創設、海老名弾正は群馬に働いた。メソジスト教会にはピューリタンの精神があり、旧武士の階層の心をとらえた。聖公会は平信徒によって初期より伝道され、この流れの中から内村鑑三の無教会主義が生まれる。1886年にはプロテスタントの信徒数は14,263名を数えた。
カトリック教会はフランス一色であり、日本政府は英米独を現代の範としていた。プロテスタントは大学の設置、インテリへの働きかけ、教育活動を盛んに行った。カトリック は直接宣教と旧信徒の司牧に力を注いだ。1890(明治23)年までに学校法人37が創設されている。大学は聖公会の立教大学(1874年)、組合派の新島襄による同志社(1883年)、メソジスト派による耕教学舎、後の東洋英和(1883年)、青山学院(1890年)明治学院(1890年)とあり、この中から多くの指導者、伝道者が現れた。カトリックはサンモール会の雙葉(1878年)、シャルトルの聖母会の白百合(1881年)、男子としてマリア会の暁星(1881年)、海星(1891年)、明星(1898年)があったに過ぎず、いずれも初等中等教育のものであった。
カトリックはそれでもこの20年間に3倍の信者の増加であった。プチジャン司教の死去の年(1884年)には、信者数は30,230名であり、司祭数54、伝道士252、教会数は84を数えていた。なお、日本は北教区と、南教区に分別された。ロシア正教は1887年の時点で15,000名を数えていた。
政府の欧化政策と宣教の熱意でキリスト教は順調に発展するかに見えたが、明治20年(1887)を境にナショナリズムの気運が高まり、外人排斥につながった。天皇を頂点とする国体の維持という保守反動の流れがこれ以降の日本の主流となった。
1889(明治22)年発布の「大日本帝国憲法」は信教の自由をうたったが、これも「天皇の臣民として国民の義務に背かない」という条件つきであった。1890(明治23)年、「教育勅語」発布、そこには全てのモラルと教育の基準は天皇にあり、忠君愛を教える儒教思想に裏打ちされていた。教育勅語はキリスト教関係者にも配布され、内村鑑三は天皇の親書に礼拝しなかったことで、非難された。これを機にキリスト教は国体に反する宗教であるとの非難が起きた。
1891(明治24)年には御真影の礼拝と教育勅語奉読を政府は学校関係者に義務づけた。キリスト教も国体思想の枠の中にはめ込まれた。1899(明治32)年、「私立学校令第17条」はキリスト教の教育を禁止する旨を内容とし、同年8月に発布された。「私立学校令」は外国人経営の学校に対する監督と規制とを強化する内容のものであった。更に宗教教育と宗教儀式を行うことも禁じた。キリスト教の学校は徴兵猶予の特権と上級学校進学の特権を確保するためにキリスト教を教えることを断念するか、特殊学校になるかの選択を余儀なくされた。こうしてキリスト教学校は国家主義政策に迎合せざるを得なくなった。日本のキリスト教はそのあり方を探索していた。
福音派教会は国体の問題で低迷する間に、新しい自由主義的神学が導入され、日本の宗教も含めて国策に対して寛容であった。この点に関して福音派の人たちと論争が激しかった。また、日本基督教会も組合教会も国策との妥協点を探る方向にあった。
1894(明治27)年、日清戦争の勃発はキリスト教と日本の国策の融合を進める一大転機となった。教会は積極的に軍隊慰問などを行い、義戦論を展開した。しかし、この10年間キリスト教は停滞した。社会的には農民の都市への流入が激しく、郡 部の教会は停滞した。社会問題も深刻であった。いずれのキリスト教も社会問題には目覚めなかった。救世軍が波紋を投げかけるぐらいのものであった。プロテスタントには三つの潮流があった。
1.植村正久を中心とする日本基督教会
2.内村鑑三を中心とする聖書中心主義
3.自由神学に基づく海老名弾正を中心とする国家的精神主義
1904(明治37)年 日露戦争が始まった。開戦に反対した内村鑑三や柏木義円は少数派であり、多くの教会指導者は積極的主戦論者であった。社会主義者についての論議が起こっている時代であり、教会は彼らと一線をかくして、労働層への伝道も消極的であった。キリスト教と天皇への忠誠ということが最大の議題であった。1911(明治44)年プロテスタント8教派は、日本基督教会同盟を結成した。
1912(明治45)年、内務省は神道、仏教、キリスト教の代表者を招き、過激な社会主義者を弾圧し、国民道徳の回復と振興のために宗教界の協力を要請した。
カトリック側では1908(明治41)年、イエズス会が来日、カトリック大学の設立に及んだ。また、フランス以外の国々からの宣教師が来日し、多様化した宣教活動を展開する気運に乗った感があった。1904(明治37)年、58,000人の信者数は大正元(1912)年には、67,000人と確実に増加していた。司祭数148、教会160であった。プロテスタントも大正元年には164,000人と増加していた。但し当時、1056もの派に分かれていた。
1912年7月、明治天皇死去。大正時代がはじまった。大正デモクラシーが起こると同時にカトリック教会もフランス一辺倒から多様化された。また高等教育への道も開かれていった。しかし教育の花が咲くのは昭和、戦後のことである。スペインよりドミニコ会、ドイツより神言会、イエズス会、フランシスコ会、カナダよりフランシスコ会、ドミニコ会、イタリアよりサレジオ会が来日した。上智大学(1913)、聖心女子高専設立(1916)といった具合に高等教育の門戸も開かれ、従来のカトリックは貧民層のためという印象は薄れた。
しかし、時代は社会思想が取りざたされる時代であった。賀川豊彦の「神の国運動」は農村や労働者の中の伝道を意識していて、社会的色彩を帯びていた。しかしこれも軍国主義の流れの中に停滞していった。
1931(昭和6)年、満州事変勃発、翌32(昭和7)、5.15事件と日本は軍国主義へと傾斜していった。思想統制は厳しくなり、殊に新興宗教への激しい弾圧が行われた。キリスト教に関しても外国の宗教ということで常に嫌疑がかけられた。奄美大島ではカトリック排斥が執拗に行われ、軍部主導のカトリック排斥は、昭和10年代に入っても続いた。1032(昭和7)年、上智大学の靖国神社参拝拒否事件が起こり、非難の的にさらされた。ローマ教皇使節と東京大司教は参拝なのか、忠誠を表す行為なのかを問いただし、単なる忠誠を表す行為ということで、神社参拝を許容した。1934(昭和9)年にはバチカン市国は満州国を承認し、日本カトリック教会も日本の政策を理解するように努めた。
1937(昭和12)年、7月7日、蘆溝橋事件で全面日中戦争に突入、政府は宗教界に対し戦争の協力を求めた。ローマ教皇庁は北支事変に対しても理解を示し、日独伊協定ではピオ11世は「防共親日」を声明した。
1939(昭和14)年「宗教団体法」を政府は可決、教団の設立には文部大臣の許可を必要とするとした。また「宗教が安寧を妨げる際には、認可を取り消す」とした。宗教を国家の統制の下におくという法律であった。
1940(昭和15)年、紀元二千年の式典を終えた翌年1941(昭和16)年、プロテスタント34教派を合併して、新たに「日本基督教団」を設立した。カトリックは「日本天主公教団」として認可した。いずれも宗教団体法によるものであった。
1941(昭和16)年12月、大東亜戦争に突入、日基は国家に忠誠を誓う声明文を提出した。
1944(昭和19)年には「大日本戦時宗教報国家」が設置され、宗教界は軍部の下に入った。カトリックは南方宣撫のために聖職者の派遣が依頼され、それに応じた。
1945(昭和20)年8月15日終戦、神道を中心とする天皇の国体は崩壊。治安維持法、宗教団体法は廃止された。1947(昭和22)年新憲法発布。信教の自由が国民の基本的人権として認められた。また政治と宗教の分離も規定された。初めて信教の自由を得た時代となったのである。
日本の宗教の問題は既成の宗教との衝突というより、国是と中央国家権力との関係にあった。近代日本の宗教の困難は江戸時代に幕府によってもたらされ、仏僧、神官、儒者によって宣伝された邪宗観であった。特にこれは農村に浸透し、それは明治政府によってもそれ以後の日本政府の政策として残り、何か国に問題が起こると、排キリスト教という体裁をとった。キリスト教は国家の発展の段階で常に絵踏みに似たことを強要された。そしてその度にキリスト教は生き残るための転換を強いられた。
プロテスタントは多くの教派が日基より独立して多彩な活動を開始した。カトリックも多くの宣教師が来日し、活発な活動を展開した。終戦当時、108,000人であったカトリック信者数は1960年には3倍近くの280,000人となり、1970年には350,000人、1980年には400,000人を超えた。しかし、その時点で受洗者は増えず、低迷している。プロテスタントは諸派全部を合わせて600,000前後であり、1,000,000人であり、日本の総人口の1パーセントにも満たない。日本は戦後、キリスト教はアメリカとその文化の導入のシンボルの印象があった。反米感情が起こるとともにキリスト教への反発もあった。またキリスト教はインテリ層へに働きかけることに終始していた。大衆の中に浸透することが少なかった。一般大衆にとってキリスト教はまだ外国の宗教であり、ふだん着の宗教ではない。