ホーム 司教区 司教館 教会住所録 教区情報  お知らせ リン ク集
教区行事 教区ニュース 教区報 掲示板  訪問者からのお便り    

◆◆◆「いのち」に寄り添って◆Ⅷ◆

赤井 聖子

 1~30 

31~32

33~34

35~38

39~42

43~49

50~59

60~69

70~79

80~89 90~100 101~110
69 さくら

 東北にも遅い春が訪れ、病院の庭の大きなしだれ桜にも花が咲き始めました。

 病院の隣の教会では、多くの方が復活祭を祝っています。

 毎年のことですが、桜の蕾がふくらみ始めると、ゲストやご家族はその花の咲き具合に「いのち」を重ねて時を待ちわび、私たちスタッフは、何とか一人でも多くの方にお花見をして頂きたいと願います。

 昨年は気候も良く、2週間もお花見が出来ました。三分咲きの頃から花吹雪の頃まで、まるで桜の霊に招かれているかのようでした。

 野の花から深窓の花まで、どれも皆美しく人の心を和ませてくらますが、何故こうも桜の花に惹かれるのでしょう。日本人だから・・・という単純なことなのかもしれません。どのような理由にせよ、桜の花と「いのち」を重ねていることは確かなのです。『見られるのかな?見られないのかな?(生きていられるのかな?)』と。

 今年は何人の方に言ったでしょう。

 「桜の花を見られると良いですね。」

 こういう遠回しな言い方は、「見ることは難しいですよ」という意味が含まれていることを、ご家族もそしてご本人も感じておられます。とても悲しい響きの言葉なのです。

 明日のいのちを案ずることなく、「もうすぐお花見ですねぇ。楽しみですね!」と、誰にでも言えたら良いなといつも思います。本当は、その方が良いのかも知れません。せめて桜の花を待つときは・・・。

 「さくら」は「咲く霊」だとも言います。

 桜の木の霊が花を咲かせ、人を呼ぶのか、人の霊が集まって花を咲かせているのか・・・。

 今年は入院している全ての方を、桜の下へお連れしたいと思っています。

▲ページ先頭

68産みの苦しみ

 

 「なんだか呼吸が苦しそうで、見ているのが辛いんです。」

 今にも旅立ちそうなお母様の傍で、息子さんはつぶやきました。

 確かに、お母様の息遣いは荒く、息子さんでなくとも辛く感じました。でも、今のお母様の状態は苦痛を感じておられないのだということを説明しましたが、頭で理解できても辛くてたまらないのです。

「親子ですものね。」と言葉をかけてから私は言いました。

「産みの苦しみってご存じですよね。お母様はあなたをお産みになるとき、どんなに苦しかったことか・・・。でも、自分が頑張らなければ大事な子供を産むことは出来ない・・・そう思って痛みに耐えたんでしょうね。今度は、お母様を天国へ送るあなたが苦しんでも良いのではないかと思いますよ。送る苦しみでしょうか。旅立とうとしておられるお母様は苦しみを感じてはおりませんが、見送る息子さんは心に痛みを感じても・・・少しは良いかなと・・・思います。」

 ためらった上での言葉でした。

 悲しみで一杯の、今まさにお母様を看取ろうとしているご家族に、私はなんということを言っているんだろうと思いました。

 息子さんは、泣き笑いの顔でおっしゃいました。

 「産みの苦しみか・・・。そうですよね。今私はこの辛さから逃げては駄目だということが、よく分かりました。送る苦しみを味わいます。」

 

 息子さんは、ずっとお母様の手を握っておられました。苦しそうなお母様の息遣いを身体いっぱいに受け止めながら。

  ▲ページ先頭

 

 67 誕生会

  ゲストの誕生日が近づくと、受け持ち看護師はカードを作り、医師もスタッフもコメントを書き込みます。屋上に花が咲いているときでしたら、ステキなブーケも作ります。そして当日、勤務者全員でゲストのお部屋へ伺い‘ハッピーバースディ’を歌うのです。

 たいていは、ご家族とも打ち合わせをしていますので、ケーキを用意したりティールームでミニパーティをすることもあります。ご本人は驚き、そして喜びます。

 ほとんどの方は、ホスピスに入院すると決めた段階で「死」を意識してしまいますから、まさか自分の誕生日を迎えられるなどとは思っていないのです。どんなに誕生日がすぐにやってくるとしても・・・。

 最近お誕生日を迎えた方は、ご高齢で本当にご自分のお誕生日を忘れていました。

 夜勤だった私は、お誕生会に参加できなかったのですが、とても嬉しそうだったとスタッフに聞きました。その夜、熱を出して苦しまれたその方は点滴で楽になると、何度も何度も私達におっしゃるのです。

 「私は、この二~三ヶ月とても苦しみました。ここへ来ても苦しかったんです。もう、早く楽になりたいと思っていました。でも、看護婦さんに‘力’を頂きました。誕生日なんて、もう関係ないと思っていたんです。それなのに皆さんでお祝いして下さって・・・。お礼に俳句を創ったんです。」

 涙と鼻水でぐしゃぐしゃのお顔は、前日までの苦痛に満ちたお顔ではありませんでした。俳句を趣味としていた訳ではありません。ホスピスで何かしようと思い俳句の本を見ていたのだそうです。そして、自分に‘力’をくれたお礼をしたいけれど、何もできないから一生懸命に俳句を考えたのだとおっしゃいました。

 震える手で一生懸命に綴られた文字は、その方の残り少ないいのちを表すようにか弱いものでしたが、生きることの喜びに溢れていました。

 残されたいのちを、私たちと一緒に生きて下さるのだろうと思い、私の鼻の奥もツンと痛くなりました。

おめでとうと言われて

 吾が誕生日

   思い出す

  ▲ページ先頭

 

 66 水面

   

 12月半ばのこと。松島を観たことがないという友人と一緒に観光に行ってきました。

 前日の雪が松の枝を半ば隠し、やはり冬の松島は美しいと感じました。友人は、青く澄んだ空や小島の群れを観ては感嘆の声をあげ、何度もシャッターを切っていました。芭蕉が言葉を飲んだことがうなずける風景です。  最近の松島の海は汚れていると言われていますが、光と風のお陰で水面はキラキラと輝いており、時の経過とともに変化する空の色を映し出すばかりです。

 『人の心と同じだ・・・』私はその水面を観て思ったのです。

 ホスピスに来られる前、殆どのかたは病気の診断に驚愕し本当の自分を見失ってしまいます。家族もまた共に苦しみ、フォローされることのない心を隠して疲れ果てています。澱んだ心は微笑むことさえ辛いことでしょう。 人は、どんなに苦しいときにも笑うことが出来ます。傍で支える人、寄り添う人がいれば・・・。

 痛みを痛みとして理解され、辛い心の内を共感してもらい、共に過ごす時間を自分の歩調と同じに合わせてもらえたら、閉ざされていた自分が戻ってくるでしょう。忘れていた笑顔が戻り、安らぎが心 に戻るでしょう。

 「いのちを生きる」ということは、決して時間の長さで測るものではないことに気がつくはずです。

 

 年が明け、此処(ホスピス)で8回目の正月を迎えた今、しみじみと松島の海を思い出したのです。

 私たちが為すべき事。それは「あなたがあなたとして生きられるように」努めること。光り輝いていたあの水面のように、輝く「いのち」であってほしいのです。

 私は光にも風にもなりたいのです。「いのち」が光り輝く為であれば・・・。

 そのような想いが自分の心の底にあることを再発見した平成18年の正月でした。

                                       

▲ページ先頭

 65 花

  

  毎年この時期になりますと、1年間に関わらせて頂いた方々を思い出します。冬至前は夜の長さにも影響され心は沈みがちになりますが、お一人お一人思い出しているうちに、何となく心が温かくなるのです。

 S さんはお花が大好きで、傾眠状態になられてもご主人がお花を持ってこられると嬉しそうに微笑んでおられました。Sさんが大事に育ておられたという‘トキ草’が消灯台に置かれた時には、はっきり目を開けられてそのお花の説明をして下さいました。株分けして頂いた‘トキ草’は、我が家の狭いベランダで一際美しく咲いてくれました。来年の春もまた、青紫色の可憐な花はSさんを偲ぶように咲いてくれることでしょう。

 Tさんは下半身が不自由になられたことが恥ずかしいと言い、決して外へ出かけようとなさいませんでした。知人に車いすの姿を見られたくないという思いがあったからです。仙台七夕の前夜祭には、大輪の花火が夏の夜空に咲き乱れました。私はTさんと一緒にホスピスの屋上から眺めたのですが、今年の花火は例年にない鮮やかな色合いで、花火が咲くたびに感嘆の声をあげていました。

 「外は良いなぁ・・・」Tさんは気持ちよさそうにおっしゃいました。棟内の散歩はしていても外の空気に触れることは無かったのですから。

 二三日後、Tさんの背中を押してみました。

 「Tさんが車いすでの姿を見られたくないというお気持ちはよく分かりますが、世の中にそういう方は大勢いらっしゃるし、そのご自分の姿が恥ずかしいと思うことは、車いすで頑張って居る方々に失礼だと・・・私は思います。」少しばかり強い口調で言えたのは、Tさんとの信頼関係があったことと、何よりそういう風に話している私の心を理解して下さるだろうと思ったからです。

 「そうだなぁ。そうだよね。行ってみるか。ホテルのレストランでフランス料理だな。」

 秋になり、紺色の背広に着替えた紳士は頬を上気させておっしゃいました。

 「ホスピスに居ても、こうしてホテルに食事に行くことが出来るってみんなに知って欲しいね。」

 前医で告知された予後を過ぎたのに、こうして食事会を出来たことが誇らしかったのです。高級ワインとフランス料理に酔いしれて、皆幸せでした。

 二回目の食事会は辛そうでした。「これが最後だね。」と帰院したT さんは呟きました。優しさにあふれたTさんは最期まで私たちに気遣いをし、微笑む事を忘れませんでした。

 「次は光のページェントですね。今度は車の窓からでも眺められますから疲れませんよ。私は楽しみにしていますからね。」話す私も、聴くTさんもその日が来ないことはよく分かっていました。でもTさんは答えて下さいました。

 「そうだねぇ。綺麗だろうなぁ。私も楽しみにしていますから。」と・・・

 

 もうすぐ、ケヤキ並木にはたくさんの豆電球が光り輝きます。

 光の花が咲き乱れるのです。

                                

▲ページ先頭

64 笑顔

  

 まだまだ‘ひよっこ’と言われていた若い頃、「全て失ったと思った時でもな、笑顔が残っていると思うんだぞ。」人生の師と仰いでいる方に言われました。以来私自身を支えてきたものは笑顔であり、その笑顔で人を支えることも出来たのです。

 

 ホスピスに来られる方は失うものが多すぎて、優しい言葉がけが虚しく響くことがあります。昨日は出来ていたことが、今日はその機能が失われているのです。当人でなければ分からない絶望感・悲しみ。慰めは時として残酷な棘となってその方の心に刺さることがあることを、この数年で経験しました。

 何も言えず、悲しみに沈む方の傍に居る私の心にも棘が刺さっているなぁと感じたこともありました。

 

 「悲しいですね。本当に悲しいです。・・・でも、○○さんの笑顔に私たちがいつも救われていることを忘れないで下さいね。」ある時、いつも笑顔のステキな○○さんに言いました。「死ぬまで笑顔で居られるかしら?」

「○○さんに限り、保証しましょう。」いつの間にか私たちの顔は笑顔になっていました。涙でグチャグチャでしたが。

 

 時々私は、「△△さんの笑顔はステキですよ。私は癒されています。」と声がけをします。笑顔を褒められて気分を害する方などいらっしゃいません。皆様、喜んで下さいます。

 

 数日前のこと。

 朝日がとても美しくて、皆様にお見せしたいと思いました。病院の左側に建っている教会の、松の枝の間から光がキラキラと輝いています。空は静かにアプリコットの色に染まります。携帯電話で写真を撮り、目を覚ました方から順にお見せしました。(携帯で写真なんて、便利な世になったものです)

 「ほう!今朝はこんなに綺麗だったの?」皆様とても喜んで下さいました。朝、気持ち良く目覚められたことそれ自体が喜ばしいことなのですが・・・。

 「赤井さんの笑顔と同じくらい爽やかだね。」

 朝っぱらからお世辞を言われた私は、その日一日中心が躍っていました。

 ▲ページ先頭

63  傾 聴

「二人で写真を撮った事なんてあったかしら。」

ホスピスの屋上でお揃いの麦わら帽子をかぶった奥様は、嬉しそうに微笑みました。ご主人は照れています。

初秋の風は心地よく頬をなで、日差しも和らいできた頃でした。

 

 告知を受けて日も浅く、十分なフォローも受けられずに来られたはずなのに、ご主人は冷静に「死」を見つめておられました。病状は大変悪化しておりましたから会話することはお辛いはずです。でも、ご主人は堰を切ったようにお話をされました。まるで自分史を語るように・・・。

 残された時間をはっきり自覚しておられたご主人にとって、少しでも多く自分の事を、そしてご家族のことを知ってほしかったのです。元来は無口な方だったとのこと。もう少し時間があれば、きっといろいろと書き留めて置いたことでしょう。

 我慢強さも相当なもので、なかなか苦痛を訴えません。「我慢は美徳なんて考えずに、ナースコールを押すことが美徳と改めましょう」と言う私の冗談を快く受け入れて下さり、すぐに痛み止めを使ったこともありました。

 全身の浮腫が強く、痛み以上にその重苦感は辛いだろうと思いました。でも、私たちが行えるケアは全て拒否なさいました。触られること、それ自体がもう苦痛でしかなかったからです。

 聴いてもらえるだけで良かったのです。自分が話す全てのことを、一言も漏らさず聴いてほしかったのです。奥様もお子様方も傍を離れず介護しておられました。私たち以上に話しておられたでしょう。でも、ご家族への感謝の言葉は私たちにしか話されませんでした。ご家族が居ない時を見計らったように・・・。

 「家族とは殆ど会話をしなかったような気がする。だから息子からは煙たいオヤジだったかもしれない。だけどね、がんになった途端、みんな優しいんだなぁ。不思議だよね。短い時間だったけど何時も家中に笑顔が溢れていた。」不思議そうに話された時、「病気が家族を一つに纏める・・・そういうことは多いんです。悲しいような嬉しいような、複雑な事ですが・・・。」私がそのように答えましたら、「いや、良いことだよ。私は嬉しいね。息子の優しさやしっかりした考えを聞いていたら、ああ・・・俺の育て方は間違っていなかったなと、しみじみ思えたからね。」

 ご自分に残された時間を、精一杯の力で掴んでいると感じました。

 八日間の入院でしたが、いのちの重みやそのいのちが受け継がれることを深く感じた時間だったでしょう。

 

 入院された時の事が忘れられません。手に小さなアルバムを持っておられました。開口一番、「これなんだか分かる?」「どなたの写真でしょう。きっと大切な方が写っておられるんでしょうね。」

 笑いながら私に手渡したアルバムは、ワンちゃんの写真で埋め尽くされていました。「しんちゃんって言うのよ。」奥様も笑いながらおっしゃいました。小さいときから可愛がってきた大切な家族でした。「うるさいから申し訳なくて・・・」と遠慮なさいましたが、半ば強引に面会に来てもらいました。

 ご主人もしんちゃんも大喜びでした。

 「これが見納めだよ。」そうおっしゃったご主人は、二日後に旅立って逝かれたのです。

 

 私たちにはもう何も出来ないと思うときがあります。でも、聴くこと・・・「傾聴」という、ホスピスナースだからこそ出来る看護があるのです。

 ご家族と一緒に最期の入浴介助をしていた時、ご主人が話されていたことをお伝えしました。

 「もう、この人ったら・・・。照れ屋だから直接言えなかったのね。」

 悲しみの涙は、ほんの少しうれし涙に変わったようでした。

 

 写真のご主人は、なお一層照れています。

 

▲ページ先頭

62 生き抜いて・・・

 母を亡くした悲しみと、若くして逝ってしまったその女性(ひと)を哀れみ慈しむように、18歳になったばかりの娘さんは紅をひきました。

 

 2月にホスピスに転院して来られた時、Mさんの心は怒りで一杯でした。硬い殻に閉じこもっておられ、私は黙って見守ることに決めたのです。『北風と太陽だな』と思いました。

 時間の経過とともに病気以外のことは話して下さるようになりました。そして次第に病気のことも・・・。

 Mさんは病気も病状も全て知っておりました。ターミナル期であることも理解したうえで、「でも、まだ治療が出来るのではないか」という望みを捨てきれなかったのです。

 「こんなに若いのに死ぬなんてね。悲しいよ、とっても。子どもたちの成長も見られないんだもの。でも、運命っていうのかしら。今はね、死ぬことは怖くないの。仕方のないことなんだよね。どうしようもないことだって分かるの。だけど、あとどのくらい生きられるのか分からないけど、その時をじっと待っているのが辛い。何もしないで生きていくことが耐えられないのよ。何か治療があるんじゃないか・・・って。長生きしたくて言ってるんじゃないのよ。」

 Mさんにとって、何もしないでいることはとても辛く耐えられないことなのでした。私は何年も、ターミナル期におられる方々と関わっておりますから、治療を施すほど身体に与えるダメージは大きく、命が縮まるのではないかという恐れがありました。でも、Mさんに残された時間をMさんらしく後悔の無いように生きてほしいという思いもあったのです。ご主人も全て承知の上でMさんの心を支えました。子どもさん達も同じでした。

 転院先では化学療法を受け、そのほかにもいろいろと施術を受けました。私がお守り代わりにと渡した銀のロザリオの指輪をはめていたそうです。

 一つ一つの治療はかなり辛いものであったらしいのですが、弱音を吐かずMさんは頑張りました。

 転院後、私は一日としてMさんを思わない日はありませんでした。悪化しませんようにと何度祈ったことでしょう。

 二ヶ月ほど経って、Mさんは戻って来ました。体中にチューブを入れられて・・・。

 私の身体にもたれかかったMさんは呟きました。「こんなになってしまった・・・」と。『こんなはずではなかった・・・』と言いたかったのでしょう。

 私はMさんに言いました。「Mさんが選んだことは決して間違っていなかったんですよ。一生懸命病気と闘ってきたんでしょう?お母さんのそういう姿を子どもさん達は誇らしく思っています。」ウン、ウンと力なく頷きながらもかすかに微笑んで下さいました。そして、数日後ご家族に見守られて静かに旅立たれたのです。

 

 人はがんという病気に罹った時、いろいろなステージで悩み苦しみます。受け入れたり諦めたり・・・。でも、もっとも辛いのは、何もしないで死を待つことなのでしょう。

 

 Mさんの思いを言葉で表すことは出来ません。自分の選択を悔やんだことがあったかもしれません。でも、私は心の底からMさんを褒めてあげたいのです。「よく頑張りましたね。しっかり生き抜きましたね。」と。

 そして、どんな時にも笑顔を絶やさずしっかりMさんを支えたご主人に、Mさんがいつも飲み込んでいた言葉をおくります。「ありがとう。支えてもらえて幸せでした。」

 ▲ページ先頭

 

61 郷 愁

 

 最近特に思うこと・・・故郷に帰りたい。育った家もすでに無く、茵に横たわる事も出来ないのですが。

 北北西に岩手山が優美な姿で聳え、北東には早池峰山(はやちねさん)そして南に北上山地、西には奥羽山脈が連なり、今頃で

すと内陸部では田園が青く輝いています。家の近くには猿ヶ石川(さるがいしがわ)が流れ少し下ると北上川に合流します。

心のどこかに、故郷の土に帰りたいという想いがありました。魂は天国へ行くとしても(身体は魂の抜け殻だとしても)・・・。

 元亭主の散骨をした時、自然に帰るって素晴らしいと感じました。パウダー状になった彼は真夏の太陽の下、波に全てを任せて静かに漂い、碧い海へ帰って行ったのです。見守る私たちには悲しいとか寂しいという気持はありませんでした。海へ帰る彼はとても幸せそうでした。海を愛した人でしたから。

 

 先日、急に思い立って田舎へ行ってきました。息子を連れて・・・。両親のお墓参りをしたかったのは事実ですが、本当は私が愛している故郷を息子に見せたかったのです。目に見えるものだけではありません。川のせせらぎ、川水の臭い。稲田をそよぐ風音や雑木林での栗や欅の葉を歌わせる風・・・さわさわとさわさわと。

 母の胎に居る時は、きっとこのような心地よさと安心感に包まれているのだろうと思わずにはいられません。

 胡四王山(こしおうざん)という小山に登ると、四方の山、遠くの街並み、間近には小さな頃に遊んだ小高い丘や猿ヶ石川が見えます。そして銀河鉄道のモデルになった在来線も・・・。 そう、私はこの地に帰りたいのです。そしてこの思いを息子に伝えたかったのでした。

 風は心地よく汗を乾かせてくれました。「風向きを考えて撒かないと駄目だね。俺にかかってはなんにもならん。」

 冗談めいた言い方で承諾した息子は、私が将来戻るであろうその辺りを慈しむように眺めていました。

 

 ホスピスにいて何度も感じることがあります。「此所に来る前に自分が入る所を決めました。」そのようにおっしゃる方々は、すでに試練を乗り越え冷静に「死」を見つめておられるようでした。そして残された「いのち」を大切に生きておられるです。まさに有終の美を飾るとはこういうことなのかと思わずにはいられません。

 

 生きているうちに出来ることには限りがあります。でももし、その中で出来ることがあるのなら、そしてとても気になることなら、誰かの力を借りてでもいいからやっておいた方が良いと思います。

 ホスピスに入院してからでも出来ることはあります。どんなに些細な願いでも、私たちの支えでその願いが叶うこともあるのです。              早池峰山

 ▲ページ先頭

 

60 コクモスの会

 幸福な家庭はみな同じように似ているが、不幸な家庭は不幸なさまもそれぞれ違うものだ。「アンナ・カレーニナ」の冒頭の一文

 ホスピスに来られた方々はそれぞれに形の違う不幸を背負っておられます。でも、形が違っても流す涙は同じです。 

 数年前の遺族会の時のことです。私は遺族係でしたので出席者の座席も決めなければなりませんでした。その時のご遺族の中に、働き盛りのご主人を亡くされた三名の奥様がおられました。私はいつも、その方々が失意のどん底におられるのではないかと心を痛めておりました。

 三名の奥様方は、生活環境もホスピスでの過ごし方も全く異なっていましたし、お互いに接点は有りませんでした。かけがえのないご主人を亡くした悲しみ以外には・・・。

 不幸なさまが違い、身内にさえ理解してもらえない悲しみがあります。でも、がんと戦いそして死を受け入れなければならなくなった絶望と喪失感はご遺族が共有できる悲しみです。まして最愛のご主人を亡くされた方々なら、その思いを心の底から分かり合えると思いました。

 そこで、その三名を同じテーブルに座って頂くことに決めたのです。

 当日、一つのテーブルに着いた奥様方はぎこちなさそうでしたが、その中で一番若いHさんは思い出話をしながらぽろぽろと涙を流し続けました。そのお姿をみたSさんは、心から気の毒に思われたのでしょう。Yさんの思いも同じでした。次第にその方々が目に見えない糸で結ばれていくのが分かりました。

 「同じ涙を流した方々ですから、お互いの悲しみも苦しみも分かるでしょう。これから支え合っていけたら良いなと思いましてね」と、お伝えしその日の遺族会は終わりました。

 その後、その三名の奥様方は互いに連絡を取り合うようになりました。互いに悲しみを分かち合い、支え合い励まし合いながら生きておられるのです。

 年に一度は私も加わりお食事会をしていました。

 昨年私も同じ境遇になり(離婚した元夫ではありましたが)、今年Mさんも加わり現在五名が一つの輪になって支え合っています。最初私は「後家倶楽部」と色気も素っ気もない呼び方をしていたのですが、今年春から「コスモスの会」という正式名称に決めました。Hさんのご主人が大好きだった花で、夏の終わりホスピスの屋上に沢山咲くからです。

 本音でつきあえる。心の底の悲しみを分かってもらえる。そして、自分も優しくなれる。

 コスモスは一つ一つの花は小さく儚げな美しさがありますが、雑草のように互いに寄り添い台風にも負けない強さもあります。

 「コスモスの会」・・・良い名前だと思いませんか。

 今月末に又皆さんと会えます。涙を流しながらも、皆さん本当にステキな笑顔を見せて下さるのです。

 支え合いながら、ご主人の「いのち」と一緒に生きておられるからでしょう。  

 ▲ページ先頭へ