仙台藩主、伊達政宗の時代のことである。徳川幕府のキリシタン弾圧によって、仙台藩に囚われの身となっていたカルワリオ神父ら9人は、元和9年も押し迫った大晦日(1924/2/18)午後2時頃、牢番によって広瀬河畔に連れて来られた。
そこは川岸から4尺(1.3m)ほど離れた大橋の下で、2尺(60cm)ほどの深さに水を張った水牢と言われた池があり、周囲に杭が立ちめぐらされてあった。
皆は着物をはぎ取られ、水の中に座って居なければならないように、池の中に打ち込まれた一本一本の杭に縛り付けられた。
その間、泣き声や嘆きの声もなく、人々の耳に響き始めたのは、イエズス・マリアのみ名や、聖き秘跡に対する賛美、「主は誉め称えられませ」などの言葉であった。
神父は不動の姿勢のまま、祈りの言葉を唱え、皆に絶えず励まし続けていた。
彼は皆を激励しては目を伏せ、敬虔な姿となり、観想にふけっているようであった。
見物にやってきた異教徒達は、口々にキリストを捨てろと彼らに呼びかけていた。神父は、自分達は、いくらでも苦しみに耐える覚悟があるという以外に、何も答えなかった。
群集は、神父に向かって怒り狂ったように悪口罵倒したが、神父は平静な気持ちで、毅然とした態度をとるように皆を励ました。
この責め苦が3時間以上続いてから、彼らは池から引き出されたが、苦しみと寒さのため、身を動かすことが出来ず、感覚を失って川岸に倒れた。
神父だけは河原にひざまずき、頭を垂れて祈り始めた。信徒の中の2人は、池から出るや否や息絶えたが、その人は天を仰ぎ、あたかも“ご公現”を見るかのように「あの方は、どなたですか」と叫ぶとともに、霊は天に帰った。
奉行は、皆とともに棄教するなら、皆を助けてやろうと神父を説得にかかったが、彼は志と信仰を捨てるよりは、苦しみを忍ぶように皆を諭してあると言って、断固として
承知しなかった。
生き残った7人は牢獄に連れ戻され、正月の3日間を過ごしたが、4日(1624/2/22)、彼らは再び水牢に連れて行かれ、裸にされ、一人ひとり杭に縛り付けられた。
初めは膝まで水につかって立っていたが、無理に座らされて胸まで水に浸った。群集は、拷問の責任は神父にあると、悪口や罵倒を浴びせた。
しかし殉教者たちの苦しみの中から発した言葉は、「ゼウス・マリア、いと聖き秘蹟は賛美せられ給え。」と言う言葉だけだった。この言葉を唱えながら、不動の姿勢で日暮れまで
絶え続けた。水が凍り始めた。
夜に入り、寒さは厳しさを増し、風は益々烈しく、雪は降りつづけていた。最後の時が来たことは誰の目にも明らかであった。
彼らは愛に満たされた言葉で、互いに最後の別れを告げ、また、神の恩寵を数え上げ、新しい恵みを願い、聖母を通して御子の助けを祈り求めた。
「束の間ですぞ。もう少しで苦しみは無くなりますぞ。」と、愛を持って繰り返し繰り返し激励する神父の声を耳にしながら、一人、二人、三人と、次々に息を引き取った。
最後まで残ったマチヤス太郎右衛門は、「神父様、さようなら。私は最後の予感がします。」と言った。
「行け、わが子よ。天主の平安のうちに。」と言う神父の答えを聞くやいなや、安らかに目を閉じた。それは夜の五つの時(午後8時)であった。
群衆も次第に去って行ったが、最後まで彼らを見守っていたキリシタンたちは、神父が夜半まで責め苦に耐え、毅然とした態度で、人々に教えてきた言葉を、口にしながら、真夜中にその生涯を終えたと報告している。
殉教者の不撓不屈の精神、殊に一度目、二度目と、10時間にも及ぶ拷問を受けながら、寒さに震えるながらも、心の中は絶えず愛熱の炎に燃えていた神父の信仰の強さに、異教徒たちさえも驚嘆し、賞賛を禁じ得なかった。
(カルヴァリョ神父は、1867年に当時の教皇ピオ9世によって福者に上げられました。】
◆仙台キリシタン殉教者◆
ディエゴ・カルヴァリョ神父(福者)
ジュリアノ 次右衛門
マチヤス 若杉 太郎右衛門
マチヤス 安間 孫兵衛
アントニオ 高橋 佐々衛門
アンデレヤス 野口 二右衛門
マチヤス 小山 小太夫
レオ 佐藤 今右衛門