ホーム 司教区 司教館 教会住所録 教区情報  お知らせ リン ク集
カテドラル 溝部脩司教 司教公式文書 講話集  殉教祭 教会の歴史  

◆2004年殉教祭司教メッセージ◆

「 生ぬるい信仰から熱く立ち上がれ! 」

                                  〜 神に、人々に、強く熱く燃えながら信仰に生きる 〜   

 きょうは、残された一通の手紙を読むことでわかったことを話していきます。

 ここ広瀬川の殉教でカルヴァリオ神父が亡くなった一六二四から三年後の一六二七年、その当時は村だったと思いますが、仙台の北に位置する現在の黒川郡富谷町のその場所で、六人の神父と五十人の信者が集まり、ある会議を行っています。そして、その会議の様子を書いたものが残されていて、それが今からお話ししようとしている手紙です。これを読みますと、仙台地区において、広瀬川殉教の後もまだ、信者たちは信仰を保って生きていたという状況を知ることができます。

 一六二六年の春、その会議が行われた前年ということになりますが、フランシスコ会と他の修道会の神父六名が長崎から東北にやってきました。彼らは山形県の酒田に上陸し、酒田から鶴岡、山形、米沢と、これらの地方で仕事を始めます。またそれより以前から、仙台地区の福島、仙台、水沢の地方には、すでにイエズス会の神父が働いていたようです。そのほか、仙台では一人のフランシスコ会の神父も働いていましたので総勢十一名になるのですが、その当時の神父の数が日本全国合わせても四十名か四十一名だけだったことからみると、そのうちの十一名が働いていた東北は、神父の数において大変恵まれていたということです。宮城県を中心として働いていたイエズス会の神父たちと、山形県を中心として働いていたフランシスコ会の神父たちが話し合いをもとうということになり、その場所としては、仙台の北部がどちらからも集まりやすいということで黒川郡が選ばれました。何のために集まるかというと、最初に話した「手紙」を読んでみると次のようなことがわかります。当時、日本には司教がいませんでした。それで、イエズス会の神父は、わたしたちは日本において、日本の司教から堅信を授ける権限をもらったと主張していました。そのことから、あとからその地区に派遣されてきたフランシスコ会の神父たちには堅信を授ける権限はないと考えたのです。だから信者にも、フランシスコ会の神父から堅信の秘跡を受けてはいけないと話していました。そこで、フランシスコ会の神父たちは、わたしたちも司祭であって、教皇さまからその権限を戴いているので堅信を授けることができると反論したのです。こうして、イエズス会の神父とフランシスコ会の神父たちの意見は対立することになりました。何より、一番困惑したのは信者たちであり、どちらのことばに従えばよいのか困り果てたのです。そこで信者たちは、一度両者が集まり、話し合ってほしいと懇願し、一六二七年、宮城と山形の県境に近い村、現在では黒川郡富谷町になっているそのどこかに集まって会議を行うことになったのです。先述しましたように、六名の神父と五十名の信者の代表が一同に集まり話し合いをしたのですが、その当時、黒川郡富谷町近辺は信者の数が非常に多く、各村々には信者の部落がありました。

 一六一七年、イエズス会の日本管区長を務めていたマテウス・デ・コーロス神父は、迫害の中にあっても懸命に仕事をしている神父たちについて証言してもらおうと、信者の代表から署名をもらい集め、それをローマに送っています。送ったときの文書がローマに残されていて、その内容を読むと、各部落の信者数と代表者の名前を知ることができます。一六一七年当時、仙台地区には四百名の信者がいました。胆沢郡の水沢近辺には四百五十名、富谷町には三百五十名いたと書かれていて、合わせて千二百名ほどの信者が仙台地区にいたということが明らかになります。しかも、亘理、筆甫(ひっぽ)、白石という宮城の県南地区を合わせたら、おそらく、千五百名から二千名の信者が存在しただろうと推測されます。このように残された文書によって、当時、相当数の信者がいたことがわかります。

 話し合いの場をもつことを提案したのはフランシスコ会の長上、ディエゴ・デ・サンフランシスコという神父でした。非常に精力的な神父で、日本全国を広く巡回していたようなのですが、一六三三年以降の彼の行方はわからなくなっています。おそらく、東北のどこかで人知れぬまま、行き倒れのようになって死んでいったのではないかと思います。彼はその会議のことを次のように手紙に書き綴っています。「ついにある夜、パードレ・ジョアン・マテオとわたし、及び、五十名以上のキリシタンが仙台の町に集まりました。」実際、この会議に参加したのはフランシスコ会のディエゴ・デ・ラ・クルス(パロマレス)神父とベルナルド・デ・サン・ホセ・オゾリオ神父、ディエゴ・デ・サン・フランシスコ神父です。オゾリオ神父は、一六三九年、山形の寒河江(さがえ)で捕えられ江戸送りになり、札の辻(ふだのつじ)で火焙りにより殉教しています。パロマレス神父も、会津で、二重壁の部屋に隠れていたところを見つかり、一六三四年に、オゾリオ神父と同じように火焙りの刑で殉教しています。イエズス会から会議に参加したのは、マテウス・アダミ神父と、おそらく、ジョアン・バプチスタ・ポルロ神父も同席し、この二名によっての参加であったのではないかと思われます。イエズス会とフランシスコ会の話し合いということで、それを仲介するのは他の修道会の神父がよいということになり、アウグスチノ会のフランシスコ・デ・テレロ神父がそれをつとめています。テレロ神父はあまり日本語が上手ではなかったので通訳が必要でした。それで、カテキスタで伝道師の、同宿ペトロ沢口九兵衛という人物が通訳をしています。この会議は、このペトロ沢口九兵衛が司会をし行われたと考えられます。沢口九兵衛は前沢の出身でした。フランシスコ・デ・テレロ神父はその後長崎に帰り、マテウス・アダミ神父と共に、西坂の丘で逆さ吊るしにより殉教しています。沢口九兵衛もテレロ神父と長崎に行き、大村で捕らえられ、放虎原(ほうこはら)という場所で火焙りにより、やはり殉教していきました。ですから、その会議に参加した神父全員が殉教者になったということです。このように、ここ仙台の地で起きたできごとを、残された文書をひもとくことで、それぞれにそれこそ命をかけて、その命の尽きるまで働いた信仰あつき人たちが皆殉教していったことを知ることができます。

 この会議で話し合いが行われた結果、合意事項が生まれました。それは、「フランシスコ会の神父も、イエズス会の神父も、堅信の秘跡を授けることができること、そして互いに助け合いながらこの東北の土地で仕事をしていかなければいけないこと、これらを合意する」というものです。この合意された事項を書に留め、手紙として東北の大小すべての共同体に送ったのです。そして、その中の一通がわたしの手元にある、今紹介したこの手紙になります。

 

 考えてみますと、迫害を受けていた時代、それは平穏とはほど遠いもので、その中にあって自分の信仰を生き抜くということはとても大変なことだったでしょう。そして、それがどれほどのものであったか、まったく想像を絶します。しかし、神に、人々に、強く熱く燃えながら信仰に生きた事実とその人たちの生涯は、残された書物などから知ることはできます。そして、迫害を受けながらも信仰を貫いたその殉教者たちは、逆に、平穏に生きるわたしたちに問いかけているはずです。この平和な世界の、自由に信仰をもつことができるという中に生きるわたしたちが、信仰に目ざめることがどれほど難しいことなのだろうかと。それはあまりにも平和の中に生きているからかもしれません。神にすがらなくても自分で生きていけるという傲慢さをいつもどこかにもっているからとも言えそうです。そういう時代とその状況にあって、どのように殉教者を捉え、殉教が、あるいは殉教者として散っていった人たちの残そうとしたものが何であったかをわたしたちに思い起こさせ、そして考えさせようとするために、この広瀬川殉教祭はよい機会となっています。今生きるわたしたちが生ぬるい信仰から熱く立ち上がるためにもこのことを大事にしていかなければいけないと思います。