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◆◆◆司教講話集1◆◆◆
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溝部 脩 司教 [ヨハネによる福音1・1−18]
今日のヨハネの福音は難解で分かりにくいという印象があります。キーワードを頭に入れて読みますと分かりやすくなるのではないかと思われます。 三つのキーワードを呈示しますので、ミサが終わった後もこのキーワードをもとに読み直してみることをお勧めいたします。 一つ目のキーワードは“言(ことば)”です。なんども言(ことば)、みことばが使われています。 世界が存在する前に神さまが来られ、神様がどのようにこの世界をお造りになったかということ、それは言(ことば)を通してであるということ。これが一番最初の部分です。この言(ことば)は世にあったともいわれています。 それでは言(ことば)とは何でしょう。それはそれを発する人の思い、考えを表しています。その考えが口になって出て来たのがことばなのです。 今神様の思い、考えが分かるためには神様が発した言(ことば)をみれば分かるということがいえるわけです。今日のヨハネの福音書ではその言(ことば)というのがイエス・キリストだといっています。だから神様の思いはイエス・キリストに 現わされているということが分かります。私たちは神様の思いを分かるためにはイエス・キリストを見ないといけません。イエスの思い、ことば、行いこれを見れば、そこに神様がどのように考えているのかが見えて来ます。だから言(ことば)であるイエスというお方を、しっかりと聞かないといけません。それで言(ことば)が第一に出て来るわけです。 大切なのは、御父が遣わした言(ことば)イエス・キリストを受け入れること、聞くこと、信じることこれが一番大切なことだということです。 今日はクリスマスで、幼子イエスさまが手を差しのべ、私を受け取ってくださいとお願いをしております。私たちは幼子イエスを受け入れればそれでよいのです。その受け入れた幼子イエスの向こう側に、神様の思い、神様の人間に対する深い愛、あつい思い、これを感じ取っていけば、神様が見えてくるわけです。 だから私たちにとって一番大事なことは、神様がお遣わしになったイエス・キリストを受け入れること、信じることが一番大事な課題なのです。 ことばは不思議なものでして、何回も何回も繰り返しているうちに、味わいが出てまいります。何度も何度も読まないといけません。ことばを繰り返し味わうことができますと、ことばは人を変える力となってまいります。 聖パウロは言(ことば)はデュナミス、力、ダイナモという表現を使っています。なんども繰り返していることばは自分の体に染み込んできて、自分を中から変えていきます。 イエスというお方を受け入れ、その言(ことば)を信じて、それを何度も繰り返すことによって、自分が変えられていくわけです。言(ことば)を味わえる人はその意味で神をみることができる人になれるわけです。 私たちは残念なことに言(ことば)に対して非常に鈍感です。従って自分の人生を見つめることができません。表層、上面(うわっら)、うわべしかみることができません。言(ことば)に味わいを知る人は、言(ことば)の中にあるもの、その意味をしっかりと受け取っていきます。これが大事です。
二つ目のキーワードは光です。光ということばも何度もでてきます。 光ということばは闇ということばの対語になっています。今日の福音書を読んでいきますと、光がくると闇のなかに逃げ込んでいく人たちがいる、この人たちが問題なのだといっています。光がくるといつも闇へ闇へと逃げ込んで行こうとする人たちがいます。自閉症になり自分を殺してしまいます。光に向かって素直に歩めばいいのです。光がくると闇に逃げてしまう。これをヨハネは「裁き」とよんでいます。 そんなことをしたから神様が裁くという意味ではなくて、闇から闇へと自分を 追い込んでいく状態が裁きなんだといっております。 ここのキーワードでも同じ結論です。みことばを受け入れること、これが光です。イエスというお方が手を差しのべて、わたしを抱いてくださいと頼む、それを受け止める、これが光なのです。イエスというお方を受け止める行為が光の道を歩むことなのです。問題はイエスというお方を受け入れるか受け入れないか、あのお方のものの見方を受け入れるか受け入れないか、あの方のことばを何度も 味わって自分を変えていくか、いかないか。この二者択一の前に私たちは立たされております。
それでは第三のキーワードです。命(いのち)です。光は命であった、ということばが使われております。 イエスというお方を見る人には新しい命が始まります。イエスはあなたの闇を追い払って、新しい光の道を歩ませるお方、すなわちイエスは光であり、命であるということです。この命は血肉によるものではなく、男の意志でもない、自分の血でもない。それは上からの力なのだということばを使っています。 私たちが新しく生まれ変わるのは自分の力によってではなく、上からの力、 イエスというお方を見る、信じる、これを通して、上からの新しい息吹きを通して、自分が変えられていくのです。新しい命が始まるのです。 自分の力でこの世の諸々(もろもろ)の出来事を解決し、自分で生きていこうとする人生観に、イエス様は真っ向から対立しております。あなたは弱い、あなたは 有限なのだ、あなたを超えているお方の思いがある。あなたをその闇から救うために、自分の一番愛する御子を見なさい、信じなさいと彼を遣わされたのです。その御子は、馬小屋で自分のすべてを、人の手に委ねます。 私たちは胸を張って自分の生きかただけを主張していますが、イエスは自分の人生をすべて人の手に委ねてしまうのです。 この三つのキーワードを概観してみて共通することは、イエス・キリストというお方の深い愛ということで全部が総合されてまいります。 私たちの信仰というのはイエス様こそ私たちを救ってくださるお方、メシア、私たちとともにいてくださる神「エンマヌエル」だということにつきます。 私たちは自分の生活の中に、イエス・キリストというお方をどのように迎えるのでしょう。この方とともに人生を生き、自分が中から変えられていくところに人生の喜び、人生の深い意味を読み取っていくことができるわけです。 私たちは教会になんのために来ているのでしょう。イエス・キリストという お方の思いを通して自分自身が変えられていく、これを求めて教会に来ているといってもいいでしょう。 今日のクリスマスのごミサの中で、こういったことを考えながらミサを続けることにいたしましょう。 以 上
於 カトリック仙台司教区カテドラル(元寺小路教会)
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溝部 脩 司教 [ルカによる福音2・1−14] 十数年前に清貧の思想が持てはやされたことがありました。その時代は日本にお金が有り余って、そのお金で土地や物を買いあさった時代です。その時代に 出されたのが清貧の思想です。 今になって考えてみますと、お金があったわけではなく、金の遊びであって、金転がしであり、実態のないマネーゲームに過ぎなかったということが分かります。泡(あぶく)のような経済が破綻すると、残っているのは余計な土地と物とそれに付いて回っている借金で、いま日本はそれを抱えています。 清貧の思想が流行った時期、あぶく銭が溢れて、人間が高慢ちきになった日本に対して警告を発しようと、その時に売れた本には、日本の伝統に従って、倹約とか節約を大切にしなければいけないと叫ばれておりました。 十数年経ってあぶく銭が消えてしまうと、今度はその埋め合わせに、人々が貯めていたお金をいかに引き出そうかという議論が盛んに行われております。結局は倹約とか節約とかいう精神論はあまり役に立たない、お金が有っても無くても、お金を対処することが一番大事なんだと、このような見方が底流に流れております。 このような時代に宗教界はどのような反応をしたでしょう。非常に心寂しい反応しかしなかったように思います。日本人の好きな西行とか、山頭火を出してきて、世捨て人の発想が宗教家の発想だと短絡的にしてしまいます。ある意味ではヒッピーと同じかなという気がするわけです。ヒッピーは20年前の若者たちが金や物から自由になるそれが社会に対する一つのしるしなのだと、反社会的な抵抗をアピールしました。 “七つの水仙”という歌がありますがその歌には、僕には1ペニーの金も無いし、土地もないけれども、しかし丘に咲く七つの水仙を君に上げようという、きれいな歌になっております。一つのスタイルです。これが清貧のスタイルと重なりまして、世俗から超越したところにあるのが宗教なのだという、ものの見方が定着してまいります。しかし、気をつけないといけないことに、宗教というとこのようなスタイルを理想とする向きがあります。汚濁社会から離脱したところに宗教がある、とそのような錯覚をもってしまいます。 このような中で、クリスマスということを皆さんと考えてみたいのです。 クリスマスが、この汚濁と欲望に満ちた世界から乖離(かいり)し、遊離し、感傷めいた美しい物語になっていないでしょうか、現代社会から離れたところにクリスマスの意義を見つけていないでしょうか、だから倹約するとか、質素な生活をするとか、この汚濁の世界から抜け出して、一瞬のきれいな世界に生きるということが、クリスマスのテーマになってしまいます。そのようになるとクリスマスが失せてしまうのではないかと私には思われます。 それではクリスマスとはなんでしょう。 聖書の考え方をとりますと、神は最愛の御子をこの世に遣わした。これがクリスマスです。この世に遣わした、ではこの世とは何でしょう。この世を喜びに満ちた浄土の世界とはあまり考えておりません。むしろ汚濁にまみれた苦悩の多い世界であるということ、そこに生きる人間は、欲望という闇の中にもがいている存在であること、これを伝えております。闇の中に沈み込んでいく存在、もがいている存在、この人間に対して神はひとり子を遣わします。すなわち、われわれが生きているこの世から逃げたところに宗教があるのではなくて、われわれが生きているこの世界に、この汚濁の中にこそ、宗教が花開かないといけないと伝えております。 私たちのこの苦悩を一緒に生きるために、神はその御ひとり子イエスを遣わします。イエスはこの時代の私たちの苦悩を一緒に生きるために生まれてくださいます。したがって私たちはこの世界から逃げ出してはいけません。同様にこの 世界に迎合して、その中に沈み込んでもいけません。この世界に生きながら、 そこでもがいたとしても、新しい世界に向かって一歩あゆまないといけません。それが私たちに与えられた課題だということを、クリスマスは思い起こさせてくれます。 今私たちは幼子の前にいます。幼子はその小さな手を差し出し、この世界に生きている私たちに、送り続けているメッセージがあります。 すなわち、私たちはこの世界にあって自分の使命、自分の身分、自分の才能を使ってこの世を生き抜いていくこと、より良い世界に向かって歩まないといけないこと、このようなメッセージを私たちに流しております。 逃げて、避けて、きれいな世界に逃げこむ宗教は力がありません。唯々諾々とこの世の論理や欲望に縛られた生きかたをする宗教も役にたちません。力がないでしょう、ただ迎合するだけです。 現代社会の中で、私たちは宗教が何を伝えるのかを考えないといけません。 私たちは教会の中で、感傷にひたっているような時ではありません。自分だけが宗教的な享楽にふけっているような時でもありません。 私たちはこの時代の汚濁というものを自ら背負って生き抜く、このような使命を帯びております。 現代の世相を少し見てみましょう。 同時多発テロが起こり、それに続くアフガニスタンへの攻撃が続き、パレスチナ紛争が起こっております。そこから難民が出て、飢えがあります。国内をみますと児童虐待があり、売春があり、自殺ありと、数えればきりがありません。何でもありです。私たちの言っている汚濁というものがよく見えてまいります。これらの現実を百も承知のうえで、この時代の苦悩を生きるためにイエスというお方はお生まれになります。私たちは、たった一度の生をいきています。たまたまではなく21世紀のこの時代を、人類とともに現代の苦悩を生きるため、私たちは今生きています。この時代を生きるために、神様から“天職”というものを与えられています。私たちは自分に与えられた身分とか、能力とか、 才能に応じて現代社会に尽くすべき領分があります。その領分が何であるかを 見極める必要があります。それは家庭であり、職場であり、学校でしょう。それらを通して私たちは、現代社会を作っていかなければならないのです。また社会人として、この責任ある生活が求められております。 この意味で馬小屋、クリスマスは逃げの思想ではありません。現代社会の種々の問題に対して私たちのものの見方、立場をしっかりと鳴らしつづける、警鐘するという預言者の良心を私たちは担っているのです。
教皇様は宗教家として宗教が目覚める、これが大事だといわれました。年の暮れには全世界のカトリック信者に対して、断食をして平和のために祈るよう呼びかけられました。また1月24日の世界宗教者会議の中で、世界平和の祈りを徹底して行おうという運動をしております。 私たちはこの現代社会に向かって、目を神にあげて平和を祈っていく、こういう姿勢が求められております。 このごミサに参列されている皆さん、私たちが生きている時代は、苦悩の多い時代です。ただ奇麗なだけのクリスマスではなく、いろいろな問題が起こっている大変な社会であるからこそ、だからこそ、私たちは心を引き締めてこの時代を生きていく決意を、このクリスマスのミサを通して新たにいたしましょう。 以 上 カトリック仙台教区カテドラル(元寺小路教会)の降誕祭夜半のミサは、19時と23時に行われました。この説教の記録は23時のテープを主にしたものです。 |
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溝部 脩 司教 2001年8月15日聖母被昇天祭のミサの説教
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ゆるしと平和を求めるミサ・説教 |
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