溝部 脩 司教
聖木曜日、聖金曜日と続けて神様の愛「アガペー」ということを話しました。金曜日には苦しむ愛について話しました。今日もこの神の愛「アガペー」について続けて話したいと思います。苦しみについて考えました時に、苦しみというのは神様の前に自分を見つめる最高の時と話しました。確かに苦しみというのは、それが訪れますと人をペチャンコにします。一時的に慰められたり、立ち上がったりできたとしても、その苦しみが増すにつれて人間は肉体的にも精神的にもまいってしまう。このような状態になりますと、自分も見つめられないし、人も見つめられない。従って自暴自棄になってしまいます。この中で私たちの信仰は、救われるにはたった一つの道しかないと教えています。その一つというのは縋る(すがる)ということです。子供が行き場がなくなった時には最後は親に縋る。信仰というのはこのような行為をさしています。私たちが行き場がないその時に縋るお方がいる、それが神様なのです。自分に縋ってくるのをじっと待っている、放蕩息子のお父さんを考えると理解できます。
多くの場合苦しみというのは自分がどうにかこうにかしながら、それを潜り抜けられると思っている状況から起こってきます。むしろ自分はできないのだという状況から縋っていく時に、苦しみは乗り越えることができます。人間の生涯の中では、苦しみとか、自分の嫌な面とか、つらさとかこのようなものをいやという程体験させられます。そこから逃げられません。それに気づいた私に苦しみの究極の意味を今日の復活のお祝いが呈示してくれます。
キリストは十字架で亡くなりました。キリストの十字架の死ということは、人の救いのための犠牲(いけにえ)と呼ばれております。難かしいことばですけど、犠牲とは何でしょう。犠牲とは神様がその人の死を通して、その死をご覧になって他の人にお恵みをくださる、これが犠牲の意味です。キリストは私たちのために死んでくださった。犠牲として捧げられたキリストを通して私たちにお恵みが与えられる。
苦しみというのは、自分では何もできないけれども、神様に自分を捧げることを通して、その苦しみを通して他の人にお恵みが与えられる。それが苦しみの究極と考えてよいと思います。いやというほど私たちは、自分の弱さとか、限界を知っています。丁度苦しいその時に、自分をキリスと一緒に捧げる行為をする。これを通しながら新しい恵みというものが人々に伝えられていきます。苦しい時こそ自分の苦しみを捧げる、それが大切な行為なのですと教えております。
復活とは何でしょう。自分の苦しみだけ見つめている状況から、キリストを見つめて、キリストと一緒にその苦しみを捧げる。ここから新しい命が始まると信じるこれが復活なのです。
皆さんの中には自分の老齢と肉体的な、精神的な苦痛を背負って生きている方々がおられることでしょう。キリストを見つめて、キリストと一緒に自分を捧げることを通しながら、新しい喜びが始まる、それが復活なのです。
青春の惑いの中にいる人たちもいるでしょう。自分の惑いの中で自分の将来も見えないかもしれない。愛情の問題に絡んで自分をいじめている方々もいるかもしれません。ちょうど十字架のイエスさまの姿を見つめて、その十字架のイエスさまの苦しみに自分を合わせて捧げたら、そこに新しい命が始まるのです。復活とはこのようなことなのです。
どうしても十字架を見つめないといけません。その十字架の向こうに新しい命の光が見える、この体験をしていかないといけません。
自分を捧げる行為を何回も繰り返すことです。これを勧めているのが今日のパウロの書簡です。「古いパン種を捨てなさい、すべてきれいに拭いさってください。そして新しいパン種によって生まれ変わってください」。「古いパン種」とはなんでしょう。マルコ福音書では古いパン種をファリサイ派のパン種、あるいはヘロデのパン種だと述べています。ファリサイ派のパン種とは何でしょう。律法に固執した古いしきたりから一歩も抜け切れない、自分が今まで生きてきた通りに生きないといけないと思っている。そして他の人にも同じことを要求してしまう、それが古いパン種です。
ヘロデのパン種とは何でしょう。見えっ張りの男のパン種です。ここで復活とは何なのかを、もう一度問い直して見ましょう。「古いパン種をとり除いて新しいパン種として生きる」、それが復活です。
古いパン種というのは律法とか、しきたりにこだわり続けている自分の姿なのです。新しい生き方に生まれ変わることのできない、これが古いパン種です。昨日までこのようにしたとこだわり続けている、こういうことです。さらに悪いことにこれに見栄が付いたり、嫉妬が加わってますます醜悪なものにしてしまいます。今までの習慣から断ち切れないのです。その結果はすべて自分の範疇に合わない人を排除していく。徹底して排除していく。自分を上に認めている限りにおいて相手を認めるという態度を取ってしまいます。すなわち、自分中心のものの見かたしかできない、これが古いパン種です。この自分中心のものの見かたから、イエス・キリストの十字架のその向うにある生き方、ここに変わって行く、これが「新しいパン種」なのです。パウロは復活を「新しいパン種」となることだと断言しています。「新しいパン種」とは神様を中心とした生き方に変わること、それが新しいパン種なのです。
私たちは教会に入ってきました、伊達や酔狂で入ったわけではありません。しきたりで入ってきたわけでもありません。強制されたわけでもありません。自由に、新しい生き方を求めて生きるためでした。自分中心の生き方ではなくて、神様を中心においた生き方に、自分の生活を切り替えていく、これが私たちが教会を訪れたたった一つの理由なのです。
私たちの人生は神様の手の中にあります。神様の手の中で泳いで、そして自分の人生を終えていくものなのです。神の手の中に自分をおいた人は、生きている社会も、自分の家庭も、職場もきっと潤いのあるものに変えていくことができる人になります。 自分中心にしか生きられない人は、いつもギスギスとした摩擦の多い人間関係を作っていくことは間違いないと思います。
復活のお祝いを今日おこなっております。古い自分を脱ぎ捨てて、新しい人に生まれ変わる、かくなるべく私たちは呼ばれております。今日は新しい人生の出発です。昨日までのこだわりとか、憎しみとか、わだかまりとか、このようなものは潔く脱ぎ捨てて新しい出発、神の愛に燃えた、人への愛に燃えたこのような新しい出発をすることです。これが私たちへの今日の復活のメッセージなのです。
以 上
於 カトリック仙台司教区カテドラル(元寺小路教会)