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復活の主日・日中のミサ  説教  2002年3月31日930分

溝部 脩 司教

 聖木曜日、聖金曜日と続けて神様の愛「アガペー」ということを話しました。金曜日には苦しむ愛について話しました。今日もこの神の愛「アガペー」について続けて話したいと思います。苦しみについて考えました時に、苦しみというのは神様の前に自分を見つめる最高の時と話しました。確かに苦しみというのは、それが訪れますと人をペチャンコにします。一時的に慰められたり、立ち上がったりできたとしても、その苦しみが増すにつれて人間は肉体的にも精神的にもまいってしまう。このような状態になりますと、自分も見つめられないし、人も見つめられない。従って自暴自棄になってしまいます。この中で私たちの信仰は、救われるにはたった一つの道しかないと教えています。その一つというのは縋る(すがる)ということです。子供が行き場がなくなった時には最後は親に縋る。信仰というのはこのような行為をさしています。私たちが行き場がないその時に縋るお方がいる、それが神様なのです。自分に縋ってくるのをじっと待っている、放蕩息子のお父さんを考えると理解できます。

 多くの場合苦しみというのは自分がどうにかこうにかしながら、それを潜り抜けられると思っている状況から起こってきます。むしろ自分はできないのだという状況から縋っていく時に、苦しみは乗り越えることができます。人間の生涯の中では、苦しみとか、自分の嫌な面とか、つらさとかこのようなものをいやという程体験させられます。そこから逃げられません。それに気づいた私に苦しみの究極の意味を今日の復活のお祝いが呈示してくれます。

 キリストは十字架で亡くなりました。キリストの十字架の死ということは、人の救いのための犠牲(いけにえ)と呼ばれております。難かしいことばですけど、犠牲とは何でしょう。犠牲とは神様がその人の死を通して、その死をご覧になって他の人にお恵みをくださる、これが犠牲の意味です。キリストは私たちのために死んでくださった。犠牲として捧げられたキリストを通して私たちにお恵みが与えられる。

  苦しみというのは、自分では何もできないけれども、神様に自分を捧げることを通して、その苦しみを通して他の人にお恵みが与えられる。それが苦しみの究極と考えてよいと思います。いやというほど私たちは、自分の弱さとか、限界を知っています。丁度苦しいその時に、自分をキリスと一緒に捧げる行為をする。これを通しながら新しい恵みというものが人々に伝えられていきます。苦しい時こそ自分の苦しみを捧げる、それが大切な行為なのですと教えております。

 復活とは何でしょう。自分の苦しみだけ見つめている状況から、キリストを見つめて、キリストと一緒にその苦しみを捧げる。ここから新しい命が始まると信じるこれが復活なのです。

 皆さんの中には自分の老齢と肉体的な、精神的な苦痛を背負って生きている方々がおられることでしょう。キリストを見つめて、キリストと一緒に自分を捧げることを通しながら、新しい喜びが始まる、それが復活なのです。

 青春の惑いの中にいる人たちもいるでしょう。自分の惑いの中で自分の将来も見えないかもしれない。愛情の問題に絡んで自分をいじめている方々もいるかもしれません。ちょうど十字架のイエスさまの姿を見つめて、その十字架のイエスさまの苦しみに自分を合わせて捧げたら、そこに新しい命が始まるのです。復活とはこのようなことなのです。

 どうしても十字架を見つめないといけません。その十字架の向こうに新しい命の光が見える、この体験をしていかないといけません。

 自分を捧げる行為を何回も繰り返すことです。これを勧めているのが今日のパウロの書簡です。「古いパン種を捨てなさい、すべてきれいに拭いさってください。そして新しいパン種によって生まれ変わってください」。「古いパン種」とはなんでしょう。マルコ福音書では古いパン種をファリサイ派のパン種、あるいはヘロデのパン種だと述べています。ファリサイ派のパン種とは何でしょう。律法に固執した古いしきたりから一歩も抜け切れない、自分が今まで生きてきた通りに生きないといけないと思っている。そして他の人にも同じことを要求してしまう、それが古いパン種です。

 ヘロデのパン種とは何でしょう。見えっ張りの男のパン種です。ここで復活とは何なのかを、もう一度問い直して見ましょう。「古いパン種をとり除いて新しいパン種として生きる」、それが復活です。

 古いパン種というのは律法とか、しきたりにこだわり続けている自分の姿なのです。新しい生き方に生まれ変わることのできない、これが古いパン種です。昨日までこのようにしたとこだわり続けている、こういうことです。さらに悪いことにこれに見栄が付いたり、嫉妬が加わってますます醜悪なものにしてしまいます。今までの習慣から断ち切れないのです。その結果はすべて自分の範疇に合わない人を排除していく。徹底して排除していく。自分を上に認めている限りにおいて相手を認めるという態度を取ってしまいます。すなわち、自分中心のものの見かたしかできない、これが古いパン種です。この自分中心のものの見かたから、イエス・キリストの十字架のその向うにある生き方、ここに変わって行く、これが「新しいパン種」なのです。パウロは復活を「新しいパン種」となることだと断言しています。「新しいパン種」とは神様を中心とした生き方に変わること、それが新しいパン種なのです。

 私たちは教会に入ってきました、伊達や酔狂で入ったわけではありません。しきたりで入ってきたわけでもありません。強制されたわけでもありません。自由に、新しい生き方を求めて生きるためでした。自分中心の生き方ではなくて、神様を中心においた生き方に、自分の生活を切り替えていく、これが私たちが教会を訪れたたった一つの理由なのです。

 私たちの人生は神様の手の中にあります。神様の手の中で泳いで、そして自分の人生を終えていくものなのです。神の手の中に自分をおいた人は、生きている社会も、自分の家庭も、職場もきっと潤いのあるものに変えていくことができる人になります。 自分中心にしか生きられない人は、いつもギスギスとした摩擦の多い人間関係を作っていくことは間違いないと思います。

 復活のお祝いを今日おこなっております。古い自分を脱ぎ捨てて、新しい人に生まれ変わる、かくなるべく私たちは呼ばれております。今日は新しい人生の出発です。昨日までのこだわりとか、憎しみとか、わだかまりとか、このようなものは潔く脱ぎ捨てて新しい出発、神の愛に燃えた、人への愛に燃えたこのような新しい出発をすることです。これが私たちへの今日の復活のメッセージなのです。

                                                            以 上

於 カトリック仙台司教区カテドラル(元寺小路教会)

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復活の聖なる徹夜祭 説教  2002年3月30日19時

                                                        溝部 脩 司教

 今日は長い式なので皆さんの忍耐を試さないために短い話で終わります。

 今日の式をご覧になったらお分かりのとおり沢山のシンボルがあります。光とか、これから行なわれる水とか、油、香、歌とかといったシンボルです。沢山の話ができるのですが、洗礼を受けられる方々のことを考えて、光のことだけに話をしぼりましょう。

 光は闇があっての光です。光の中での光は大したことはありません。闇があるから光る、闇を体験した人が光を味わうことができます。逆に光が来ると闇から闇へと逃げ込んで行く、ここには救いがありません。ヨハネ福音書を書いた人は、私たちは闇から闇へと逃げて、光を見なければ救いはない。そこは裁きしかないといっています。

 闇とはなんでしょう。闇とは欲望が渦巻く、肉の思いに捕らわれた世界です。欲望と、しがらみにがんじがらめに縛られている世界、これが闇です。このがんじがらめに縛られているこの闇の世界に光が輝きます。この光は福音書によればイエスというお方なのです。私たちは今日闇の中から光の中に入ってきました。真っ暗闇の聖堂に光が灯されました。その光はイエスというお方の光なのです。私たちは闇を体験しました。その体験の中から光の味が分かっているといえます。

 洗礼とはなんでしょう。自分の闇を見つめた人が洗礼に至るのです。自分が善人で、正しい人だと思っている人は洗礼の光は見えません。自分の罪深さ、自分の性(さが)の悲しさ、自分の弱さ、自分のこだわり、自分の限界、これらのことを知っ

た人が、光であるイエスというお方によって新しい生き方に変わる、これを求めて洗礼に到ります。闇を見ていない人は光が見えません。洗礼を受ける前にきっと準備をなされたでしょう。大事なのはあなたの深いところにある闇、これに気づくこと、そこから立ち上がること、これが求められております。闇があっての光、イエスなのです。そのむかし聖アウグスチヌスは「なんと幸いなる闇、なんと幸いなる罪」という表現をしました。こんなに人間が欲望にみちて、こんなに悲しい世界であるからこそイエスというお方光が来たのです。もしも私たちがぐうたらで、もしも私たちが罪深くないとしたら、光は決して来なかったでしょう。イエスは来ません。私たちはこのような罪深い闇の中のどろどろとした世界に生きています。そのような中で一條の光イエスというお方を信じて集まる、これが私たちの教会です。

 私たちが闇にあること、欲望にさいなまれていること、この世のしがらみにのたうち回ってにること、これは幸なのだといっております。私たちが生きている社会というのは欲望の渦巻いている世界、ちょうどその中に生きているからこそ一條の

光、イエス・キリストを求めて私たちは教会に集まってきます。これを求めて私たちは洗礼を希望します。形だけの洗礼は何の意味もありません。センチメンタルな単なる感傷にすぎない洗礼も何の意味もありません。私たちは自分の罪深さを見つめたうえで、光であるイエスに信じて生きてみようと決意する、これが洗礼です。

 復活は光です。洗礼も光の道を歩むことを指しております。そしてこの光が見えるために、何度も申し上げていますが、自分の闇をしっかりと見つめないといけません、自分の弱さが分かる人、この人は光りが見えます。幸いに、今週の日曜日から、木、金とこの光を見つめて私たちは洗礼を準備をしてまいりました。復活祭を準備してまいりました。

 今日の式の中でいま光が一杯です。この光を体いっぱいに受けて歌い、そして祈る祭式にいたしましょう。洗礼を受けている方々は新しい命へと復活することを誓って、このごミサを終わることにいたしましょう。

                                                       以 上

於 カトリック仙台司教区カテドラル(元寺小路教会)

 

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聖金曜 主の受難の典礼 説教  2002年3月29日19時

                                                      溝部 脩 司教

 昨日聖木曜日のごミサの中で、「アガペー」、神の愛ということをお話しして、今日はその続きをしますと予告をしましたので、神の愛「アガペー」の話の続きを行います。神の愛「アガペー」には必ず愚かさが付きまとっております。賢くて格好のよいところには、神の愛は現れません。どこか愚かで人の目に見たらとってもくだらないように見えるところに、神様の愛があるのです。今日は、「アガペー」の愛は苦しみを伴うという話しをさせて下さい。

 人の世に苦しみは避けられません。みんなそれぞれ、その年なりの大なり小なりの苦しみを背負って生きていかなくてはなりません。若い人は若い人なりに、年をとった人は年を取ったなりの苦悩とか苦難、忍従とかその他のことを強いられます。

 聖書では人に振りかかる災難をマサー(massah)ということばで表わします。例えばヤコブは自分のテントを追われて、さまよいながらいろんな試練にあいます。歩きながら、神に使える下僕というのは何かを悟っていくのです。苦難が振りかかるは仕方がないことなのです。問題はこれを通して自分に必要なものは何かを分かることです。人はある目的に達するためにはどうしても苦悩を避けてはいけません。また通れません。苦悩が訪れますと抑圧された状態がやってまいります。なんとなくいつも重苦しい感じなのです。その重苦しい感じがひどくなりますとなにも出来なくなる、なにもしなくなる。「アパティア」(無感動)の状態とはこのようなものです。そこには苦悩というのは人を圧迫するもの以外の何物でもなく、なんの意味も持たないのです。或いは苦悩というのはしかたのないものであって、受けるより外にない、耐えるより外にないと考えます。その内に時が過ぎ去ったらなんとかなるだろうと考えます。

 ここで旧約聖書からヨブという人を登場させて、苦悩とか苦しみという問題をともに考えていきましょう。ヨブは義人と呼ばれている人です。家庭にも恵まれ、友人にも恵まれ、正しい生活をしている立派な人で、非常に尊敬されておりました。ところが悪魔が神様に「あの人を誘惑してもよいですか、誘惑したらあの善人面をしているヨブはきっと神を呪うようになるから試してもよいですか」と迫ります。こうして悪魔はヨブを惨めさのどん底に落として神を呪うようにさせます。ところがなかなか呪わない彼の家庭を壊して、財産を奪って、友人を欺かせる、自分の妻も欺かせるという状況においてしまいます。ただヨブはこのような苦しみの中で、どうして私にこのような苦しみが、という問題の答えが分かりません。だから苦しみとはなんなのかという問いかけを絶えずします。どうして、どうしてとこれが彼の一番の問題点でした。友人たちが、よってたかって彼に答えて説得します。これがヨブ記の内容になっています。まず友人たちは彼にこのようにいいます「苦難というのは罪の結果である。君は知らないうちに罪深い人間であって、罪を犯しているからこのような結果が出たのだ。」ヨブは私には大きな罪の意識がないのであって、こんな苦しみがふりかかるのはどうしても納得がいかないといいはります。今までの私の行為と比較して、このような大きな罰があるとは考えられない。彼が納得しないので、友達は更に「苦難というのは人を浄化する、苦しみがその人をきれいにしていくのだ、浄化されて天の道を歩むためにはどうしても苦しみが必要なのだ。」といいます。しかしこれにもヨブは納得しません。不当な苦しみ、大きすぎる苦しみは人を無気力にするだけであって、生きる力を失わせてしまう。実際この私に与えられいるこの苦しみは、私の力を超えていて私を無気力に落としこんでしまう。決して苦しみが私を浄化していると思えないと答えます。苦しみを通して私を高めるなどとは考えられない。これについてもヨブは聞かないので、友人たちは彼を罵倒します。そして最後の説得は次のことです「苦難というものは、黙って忍耐して受けるものなのだ。お前は傲慢だから受けることができない。」これにヨブは非常に反発します。あなたたちは自分の人生は正常でうまくいっているからそのようにいえるのであって、苦悩のどん底にあったらそのようなことが言えるかという反論です。“黙って耐えるのがわたしの道だ”というのは答えにはならない。苦しむためだけの苦しみ、それは人に希望を与えない。ここで神様が現れて彼に諭します。結論的にいいますと『大事なのはあなたが頭を垂れることなのだ。あなたの上に神がいること、あなたは神の手の中にあること。その神の手の中であなたの人生を受け止めないといけないこと、神の手の中に苦しみを受け止めること。裸で生まれてきたあなたは裸で帰っていく、神からただで与えられたら、ただで全部お返ししていく、このような人生を選ぶことなのだ。』これで ヨブ記が終わります。ヨブは理解するに至るのです。これで終わりたいと思います。

聖金曜日は、イエスさまの苦しみを私たちに思い起こさせています。あそこに十字架があります。十字架のイエスさまは私たちに問いかけます。『あなたが生きている意味はなんなのですか。』もしも苦しみのどん底にある方々がここにおられたら、あるいは苦しみを背負って自分の老年期を生きている方がおられたら、青春の苦しみを背負っている方がおられたら、自分の熟年の仕事の苦しみを背負っている方がおられたら、どうぞ十字架のキリストに向かって『何なんですか』という問いかけをして見てください。そして頭を深く垂れて下さい。今日の聖金曜日の儀式の最初に私はまずひれ伏しました、頭を深く垂れました。福音の朗読の中で「ことがなった」といってイエスさまは亡くなります。その時私たちは皆な頭を深く垂れました。頭を深く垂れて、「主よあなたこそ私の神、私のすべてをあなたに」と今日答唱詩篇で歌ったあの歌をもう一度繰り返してみる必要があります。信仰告白を実感をもって行う、これが私たちへの聖金曜日のメッセージです。  

(拝領祈願のあとの司教様の話です。)

 今日は聖金曜日で大斎、小斎をおこなっております。今日から明日にかけて私たちは喪に服すことになっております。祭壇の上のものも全て取り払われております。イエス・キリストの死をいたむ。明日の昼まで死をいたむ心を大事にして過ごすようにいたしましょう。けばけばしい音楽などさけて、主と出会い一致する貴重な時間にして下さるようお願いして、今日の儀式を終わりたいと思います。

  以 上

於 カトリック仙台司教区カテドラル(元寺小路教会)

 

 

 

 

聖木曜 主の晩さんのミサ 説教 2002年3月28日19時

                                                     溝部 脩 司教 

 旧約聖書の預言書の中に「ホセアの書」があります。このホセア書の中では神様の愛とは何かということがうたわれています。裏切って不貞を働く妻への夫の愛にたとえて話しています。何度注意しても、何回話し合っても不貞を働いてしまう妻、これを一途に愛し続ける夫の姿です。そのたびにゆるし、また受け入れる。また裏切られる、このくり返しを行う夫の姿を、神様の愛にたとえてうたったのがホセア書です。非常に愚かな男の姿が神様の姿と二重写しになるわけです。この愚かな男の姿を、新約聖書は「放蕩息子」のたとえ(ルカ15・11)で表わしています。自分の分け前をくれといってとび出して行った放蕩息子、放蕩三昧の息子を待ち侘びて毎日毎日待っている父親の姿、そして帰って来たら、最高のもてなしをして、着物をきせ、指輪をさせて、子羊を屠って食べさせる。この父親の姿が神の愛であると話しております。とっても愚かな愛です。それに反してお兄さんの方は、放蕩息子が帰って来たのに父親が歓迎し、歓待するのが気に食わないと嘆きます。なんだあいつがとブツブツいう、これが人の愛なのです。別な表現をしますとギリシャ語で「エロス」、あるいは「フィリア」ということばが使われる愛です。神様の愛と人の愛とは、愚かであるか賢くあるか、この二つに分けて考えられます。 新約聖書の中には更に「ブドウ園のたとえ話し」(マタイ20・1)があります。朝仕事を待っている人がいて、ブドウ園の主人はその人に1デナリオンの報酬で仕事をあたえます。10時ころ行くとまた仕事を待っている人が一杯いるので、その人に仕事をあげます。お昼ころ行ったらまたいるので、仕事においでとさそい、夕方5時ころ行ったらまだ立っている人がいて、その人にも仕事をあげます。給料を払う時になって、一番最後の1時間くらいしか働かなかった人に1デナリオンが与えられる。3時、12時、10時とそれから朝早くから働いて一番苦労した人とお金が払われます。この人達は多分自分にはもっと多くのお金をくれるのではないか、と期待していたでしょう。ところが皆同じ1デナリオンしか貰えません。彼らはブツブツいいます。あの人達は1時間しか働かなくても1デナリオンで、私は一日こんなに汗し、苦労をして働いて同じ1デナリオンかと、ブドウ園の主人は、“私の心が分からないのか”と彼らに諭します。一日仕事がなく家では食べ物を待っている子供がいて、家庭もある。あなたと同じように一日の糧を待っている人たちがいる。私にとっては1時間働こうが、10時間働こうが同じように必要なお金をあげたいのだ。この心が分からないのかといいます。自分の取り分だけ考えて、他の人にも同じく家庭があるとか、子供のためにお金をもって帰らないといけないとか、このようなことに気がつかない、これがエロス、人間の愛なのです。神様の愛は違います。

 今話しました聖書の三つの個所いずれにも共通していることは「愚かさ」ということです。神様の愛はギリシャ語で「アガペー」といっています。神様の愛は人にとって愚かなことです。人は賢く、損をしないで、格好よい愛の姿を求めるものです。  これをエロスと表現しております。

 イエスさまはご自分が選ばれた使徒たちに、この愚かな愛を実践して行きなさいと勧めておられます。私たちは洗礼によって信仰者となり、イエスさまに招かれました。すなわち日々の生活の中で、この愚かな愛を生きるということを誓ったわけです。賢かったら駄目です。人間の頭だけで考えては駄目なんだということを、私たちに教えておられます。聖パウロはこの愚かな愛は人を新しく変える力であるといっています。ローマ書の8章でこのように述べています。「新しい人は古い世のしきたりから引き離されて、すべてから自由になる。」しきたり、しがらみから引き離されて自由になる。これがアガペー、神の愛なのだといっているのです。この愛、アガペーに生きる人は多くのしがらみから自由にされます。私たちはこの聖週間の中で、どんなしがらみから自由にならないといけないのでしょうか。人との関わり、仕事のこと、この世のわずらい、いろんなものがあるでしょう。神様の愛を知ったときに、これらのしがらみから解放されて自由にならないといけない。それはちょうど愚かに生きることなのです。あれやこれやの人の思いから解放されて、全部を捨てて、喜んで愚かな道を歩む、このような決心をこのごミサの中でいたしましょう。イエスさまは「侮辱を受けてもののしられず、不正を受けても黙した」と聖書は述べています。

 明日は聖金曜です。苦しみをどのように受け止めるか、この愛について今日の話しの続きをしたいと思います。  以 上

於 カトリック仙台司教区カテドラル(元寺小路教会)

 

 

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聖香油ミサ 説教  2002年3月27日

(助祭叙階の儀、助祭・司祭候補者の認定式)            

                                                   溝部 脩 司教

教皇様は今日のお祝いにあたってメッセージを送ってくださいました。その中で世界の司祭のためのメッセージを述べております。このミサでは助祭に叙階される人への勧告文が読まれます。また認定式を受ける人への勧めも読まれます。従って私はこの機会に兄弟である司祭の皆さんへメッセージを述べたい。

 第1のメッセージ司祭叙階式の勧告文には「キリストを主として宣教に励んで下さい」と述べられています。「司祭は福音を述べ伝え、神の民を牧する」ともこの勧告文の中にあります。私たち司祭の先生はキリスト一人です。あの方は燃えるような熱意でもって、人の救いということに自分を燃やしました。これが  司祭の生き方だと同勧告文は勧めているのです。人に対する深い愛に生きること、これが私たち司祭への第1のメッセージです。

 2番目のメッセージは「自分が喜びをもって受けた神のことばをすべての人に分け与えてください。」司祭の務めはことばを分け与える、ことばを分かち合う、これが重大な務めです。教会の中ではことばが大切にされないといけません、「主の掟をよく黙想して、読んだことを信じ、信じたことを教え、教えたことを実行するように心がけてください。」私たちが叙階されたときこのことばが勧められました。ことばを深く味わうことが司祭に求められております。信者の皆さんも司祭が本当にことばを深く味わう恵みが与えられるようお祈りをしてください。深く味わったことを伝えること、これが宣教であり、司牧であるといえます。教会はみことばを糧として生きる人たちの集まりです。司祭の務めはことばという糧を人々に与え続けるのです。

 第3のメッセージは「キリストの内にあって、人々を聖化する任務に励んでください。」という勧告文です。司祭の務めは聖化することです。私たちは洗礼をうけたその時から聖人になるように召されております。司祭は信徒たちが聖徳の道を歩むように助ける、このような役割を担っております。「あなたがたの奉仕によって信者の霊的犠牲は、祭壇のうえに神秘の祭儀のうちにあなたがたの手によって捧げられる犠牲に結ばれて完成されるのです。」この聖化の務めというのは、おもに秘跡をとおして行われます。私たちは秘跡的祭司職という言葉を使っておりますが、それがこの所以です。カトリック教会の本質はサクラメントトウム、秘跡といわれます。この秘跡を執り行う司祭なしにはカトリック教会はありません。カトリック教会にはどうしても司祭が必要なのです。秘跡こそ司祭が最も大切にしなければならない課題ということも思いおこさせております。

 最後の勧めです。神の礼拝を司式するために、「司教の祭司職に結ばれて司祭職を行使してください。」今司教と司祭が一つの祭壇で結ばれてミサを捧げます。これこそ司祭職の完成といえます。一人だけの司祭職はありません。司教と結ばれて司祭職があります。「この一致の中で信者を一つの家族に集め、キリストを通して聖霊の中で神である父へ導くよう努力してください。」これが第4の勧めです。ともに歩むようにしましょう。

 兄弟である司祭の皆さん、キリストの愛に結ばれてより良き教会一致のために、より良き教会の建設のために、私たちが捧げ尽くす司祭職をともに分かち合って今日あらたに「司祭職の更新」をいたしましょう。   以 上

於 カトリック仙台司教区カテドラル(元寺小路教会)

 

 

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