イスラエルの王なる主はお前の中におられる
待降節はいよいよ後半に入り、主が直ぐ側に来ているので、喜びに満たされて待つことができることを、今日の典礼は意識させます。ですから、この待降節第3主日は「喜びの主日」とも言われます。(ちなみに、今日のろうそくの色は、喜びの色になっています。)
では、早速、今日の第一朗読を読み返し、わたしたちに与えられる喜びの源を確認して見たいと思います。
今日の箇所は、ゼファニアの預言から採られていますが、この預言者が活躍したのは紀元前七世紀のヨシュア王の激動の転換期の時代です。まさに、時代が激しく移り変わっていく最中に、この預言者は、天使たちの次のような言葉を伝えたのです。
「娘シオンよ、喜び叫べ。イスラエルよ、歓呼の声をあげよ。娘エルサレムよ、心の底から喜びおどれ」と。
ここで言われている「娘シオン」とは、預言者たちが好んで使う言い回しで、エルサレムとその住民を指し、民に対する神の深い愛情を表しています。
では、なぜ喜ぶことができるのでしょうか。その理由は、極めて明らかです。それは、主なる神がイスラエルに対する裁きを退け、敵を追い払われることによって、まさにイスラエルの只中におられるからです。
ですから、わたしたちは、災いを恐れることは全くなくなったのです。
とにかく、このような喜ばしい天使のことばを聞かされたので、わたしたちは人々に向って次のように叫ぶことができるのです。
「シオンよ、恐れるな 力なく手を垂れるな。お前の主なる神は お前の只中におられ 勇士であって勝利を与えられる。主はお前のゆえに喜び楽しみ 愛によってお前を新たにし お前のゆえに喜びの歌をもって楽しまれる」と。
主において常によろこびなさい
そして、今日の第二朗読は、パウロが西暦54年後半にエフェソの獄中からフィリピの教会に宛てた手紙から採られています。自分が獄中にあっても、「主において常に喜びなさい」と力強く励ますことができたのはなぜでしょうか。しかも、一時的にではなく、「常に」喜びの状態に留まるようにという勧めです。それは、パウロがはっきりと念を押しているように、他でもない「主において」初めて出来ることなのです。つまり、わたしたちがしっかり主に結ばれているならば、常に喜びのうちに留まることが出来るのです。
このことについて、実は、イエスご自身が、弟子たちと別れる際に切々と語ってくださいました。
「わたしの内に留まっていなさい。そうすれば、わたしもあなたたちの内に留まっている。・・・わたしはぶどうの木であり、あなたたちは枝である。人がわたしの内に留まっており、わたしもその人に内に留まっているなら、その人は多くの実を結ぶ。・・・わたしの言葉が、あなたたにの内に留まっているならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。・・・父がわたしを愛してこられたように、わたしもあなたたちを愛してきた。わたしの愛に包まれて常に生きなさい。あなたたちがわたしの掟を守るなら、わたしの愛に包まれて 常に生きることになる。・・・わたしがこれらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたたちのものとなり、あなたたちの喜びが満ち溢れるためである」と(ヨハネ15.4-11)。
その方は、聖霊と火であなたたちの洗礼をお授けになる
ところで、今日の福音に登場するイエスの先駆者である洗礼者ヨハネは、群集に向ってイエスを迎えるために何をすればよいのかを、極めて具体的に教えています。とにかく、人々は真剣にヨハネに尋ねました。「わたしたちはどうすればよいのですか」と。それに対して、ヨハネは、答えます。
「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」と。
「規定以上のものは取り立てるな」と。
「誰からも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」と。
つまり、主を自分の生活に只中にお迎えするのにふさわしい生き方とは、例えば何か特別な厳しい修行を積むようなことではなく、むしろ日々の平凡な生活の中で、まず愛の実践に励むこと、そのためには、自己中心の生き方をキリスト中心の生き方に根本的な姿勢転換をすることにほかなりません。
なぜなら、わたしたちは「聖霊と火で」イエスから洗礼を受けているからです。ですから、洗礼者ヨハネは、次のようにはっきりと教えてくれます。
「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。・・・その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」と。
確かに、洗礼者ヨハネは、イエスを迎える準備として悔い改めの洗礼を、ヨルダン川で大勢の人々に授けていました。そして、イエスご自身も、このヨハネから洗礼を受けらましたが、その時、イエスに上に聖霊が鳩のように降ったのです(ルカ3.22,参照)。また、聖霊降臨は、エルサレムにマリアを中心に集まっていた弟子たち一人ひとりの上に炎のような舌のかたちで聖霊が降った出来事でした。
とにかく、わたしたちが受けた洗礼は、イエスご自身の次のようなご命令に基づいて授けられました。
「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがと共にいる」と(マタイ28.18-20)。
聖霊と火で授けられた洗礼の恵みこそ、まさに生涯かけて生きるすばらしい恵みです。それは、キリストにしっかり結ばれて新しいいのちを生きる者とされたからです。つまり、日々罪に死んで、復活のいのちの生まれ変わることができるのです。このキリスト者の生き方を忠実に実践するからこそ、常に喜びの状態にとどまることができるのです。つまり、ぶどうの木であるイエスの愛にいつも包まれているので、その枝であるわたしたちにイエスの喜びが豊かに伝わって来るのです。
主が来られるのを目前に控えて、主イエスとの結びつきをより一層強めることとができるように共に祈りたいと思います。