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◇◇ 主日の説教 ◇ C年 ◇   担当 佐々木 博 神父

四旬節第3主日・C年(10.3.7

「海の中で洗礼を授けられ」

彼らを救い出し、導き上る 

  先ほどの集会祈願で、共同体は、特に「あなたの力によって罪の束縛(そくばく)から解放され、新しい人となることができますように」と祈りました。四旬節の歩みも半ば(なか)に達し、わたしたちは洗礼志願者と共に信仰者の生き方の基本についての見直しをさらに深めなければなりません。

  では、早速、今日の第一朗読を読み返して見ましょう。

  今日の朗読箇所は、旧約聖書の二番目の書物である『出エジプト記』からとられています。これは、紀元前13世紀に、それまでエジプトで過酷な重労働に課せられていた古代イスラエルの人々が、その奴隷の家から神によって奇跡的に解放されたというまさに救いのみ業のクライマックスを物語って(ものがた)いる書物です。

  ですから、今日の箇所は、その解放のためのリーダ―としての召命を、モーセが神から受ける場面であります。

  モーセという名は、エジプトの王女が、彼をナイル川から救い上げたことにちなんで名づけられました(出エジプト記210節参照)。そして、乳離れ(ちばな)するまで、(じつ)の母親によって育てられ、その後()は、王の宮殿で王女の息子として育てられますが、同胞のヘブライ人を助けるためにエジプト人を殺害してしまいます。そのためモーセは、自分の身の危険を感じて遠い国ミディアンに逃亡し、そこで羊飼いの娘と結婚し、羊飼いとして(へいおん)な人生を送っていたのです。ところが、彼が八十歳になろうとしていた晩年に、このとてつもない重大な召命を、神から受けることになったのです。

  そこで、神の山ホレブ(別名シナイ)に来たときです。突然、不思議な光景(こうけい)をまのあたりにします。「柴の間に燃え上がっている炎の中に主の御使い(みつか)が現れた」のです。しかも、その「柴は火に燃えているのに、柴は燃え尽きない」のです。その原因を突き止めようと、モーセは、道をそれてしまい、神との感動的な出会いを体験します。何と「モーセよ、もーせよ」と名指して神から呼びかけられたのです。彼は、畏れながら「はい」と答えます。すると神は、厳か(おごそ)に命令なさいます。「ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから」と。そして、「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と、まさに自己紹介をなさいます。実は、この「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」とう表現は、イエスが、サドカイ派の人たちに対して死者の復活の証明として引用し、先祖の神は今なお生きておられ、まさに神は生きているものの神であることを強調なさいました(マタイ福音書2232節参照)。

  そして、さらに、早速、神がなさろうとしておられる偉大な救いのみ業を説明なさいます。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。それゆえ、わたしは降って(くだ)行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地へ彼らを導き上る(みちびきのぼる)」と。

  このように、まず神は、ご自分の行動パターンによって、どんな神であるかを説明なさいます。まず「ご自分の民の苦しみをつぶさに見る」のです。また、「苦しむ人々の叫びを聞く」のです。さらに「彼らの痛みを知って、降って(くだっ)行って彼らを救い出す」お方なのです。

この旧約聖書が語たる神の救いのみ業の最初のマックスに、モーセがまさに神の道具となるという重大な召命をいただいたのです。ですから、モーセは、さらに神に尋ねます。「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか」と。

  それに対して神は、ご自分の名前というよりは、神はどのような(かた)であるのかを、次のように説明なさいます。「わたしはある。あたしはあるという者だ」と。つまり、「神の名」ではなく、神ご自身が、イスラエルの民に対して働きかけるときの特別な現れ方を示した言い回しなのです。ですから、ここで言われている「ある」とは、ただ神の存在を強調するだけではなく、特に苦しむ人間を死からいのちへと解放するために存在することを宣言しているのです。したがって、「わたしは必ずあなたと共にいる」神であると主張しておられるのです。つまり、神こそは「どんなときにも、どんな所でも、そのときに最も適切なあり方(かた)で共にいてくださる(かた)」なのです。 

海の中で、洗礼を授けられ 

  ところで、今日の第二朗読によって、パウロはモーセの時代のエジプトの奴隷の家からの解放という救いの出来事を、次のように、イエス・キリストによる救いの神秘に見事に結びつけています。

  「わたしたちの先祖は皆、雲の(した)におり、皆、海を通り抜け、皆、雲の中、海の中で、モーセに属するものとなる洗礼を授けられ、皆、同じ霊的な食物を食べ、皆が同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らが飲んだのは、自分たちに離れずについて来た霊的な岩からでしたが、この岩こそキリストだったのです」と。モーセに率いられてイスラエルの群衆は、追って来たエジプトの軍勢から逃れようとしましたが、目の前に広がる海にまれ(はば)てしまします。

  そのとき、エジプトの陣とイスラエルの陣との間に真っ黒な雲が立ち込め、光が闇を貫き(つらぬ)、両軍は、一晩中、互いに近づくことができませんでした。そこで、モーセが手を海に向かって差し伸べると、(しゅ)は夜もすがら激しい東風をもって海を押し返されたので、海は乾いた地に変わり、イスラエルの人々はその乾いた所を進み、向こう岸に逃れることができたのです。実は、この出来事が、イエス・キリストによって罪の奴隷から解放されて、新しい復活のいのちへと過ぎ超すという洗礼の恵みを前もって示したものだったのです。それだけではなく、その後()の荒れ野での旅で与えられたマンナという食物が、毎日与えられました。

  しかしながら、今度はイエスが、パンの奇跡の(あと)、群衆に向かって厳かに次のように宣言なさいました。

  「あなたがたの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。しかし、これは、天から降って(くだ)来たパンであり、これを食べる者は死なない。わたしは、天から降って(くだ)来た生きたパンである。このパンを食べるなら、その人は永遠に生きる」と(ヨハネ福音書649節から51節)。

  古い自分つまり罪から解放されて、新しいいのちへと過ぎ越すことができるのは、まさにわたしたちのために死んで葬られ三日目に復活させられたイエス・キリストのお陰です。この偉大な「過越の神秘」を、共同体ぐるみでふさわしく祝うために引き続き回心の道を忠実に歩み続けることができるように、共に祈りたいと思います。

四旬節第2主日・C年(10.2.28

「これはわたしの子、これに聞け」

義と認められた 

  四旬節も、第二週目に入りました。この回心の恵みの時期に、信仰の生き方の基本について、今日も少し振り返ってみたいと思います。

  先ず、今日の第一朗読ですが、信仰の父アブラハムが、まだアブラムと呼ばれていた時の体験が、語られています。今日の箇所は、(しゅ)なる神が、アブラムを天幕の外に連れ出すところから始まっていますが、実はそれまでの神とアブラムとの真剣な対話が非常の大切なので、ここで紹介します。それは、創世記の15章で、次のように始まっています。

  「これらのことの(あと)で、(しゅ)ことばが(まぼろし)の中でアブラムに臨んだ(のぞ)。『恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの(たて)である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。』アブラムは尋ねた。『わが神、主よ。わたしに何をくださるというのですか。わたしには子どもがありません。家を継ぐのはダマスコのエリエゼルです。』アブラムは言葉をついだ。『ご覧のとおり、あなたはわたしに子孫を与えてくださいませんでしたから、家の(しもべ)が跡を継ぐことになっています。』見よ、主のことばがあった。『その者が跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ。』」と(創世記151節から4節)。

  すでに、主なる神は、アブラハムに次のような約束をしています。「あなたの子孫を大地の砂粒(すなつぶ)ようにする。大地の砂粒(すなつぶ)が数えきれないように、あなたの子孫も数えきれないであろう」と(創世記1316節)。にもかかわらず、この約束は一向に実現しませんでした。ですから、アブラハムは神のご計画を待ちきれず、勝手に跡継ぎ(あとつ)決めてしまったのです。すべてのことを決めるとき、また実行するために、いつも忠実に神に聞き従っていたはずのアブラハムも、まさに自分の思いと考えを優先させてしまったのです。

  しかしながら、そこで神は改めてご自分の思いを、はっきりと次のように確認なさいました。

  「その者があなたの跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ」と。

  それから、神は、極めて象徴的なことをなさいます。つまり、早速、彼を天幕の外に連れ出したのです。それは、自分の思いと考えという天幕から出なさいということです。そこで、神は、命じられました。「天を仰いて、星を数えることができるなら、数えてみるがよい」と。すなわち、自分の考えを、かなぐり捨てて、神のことばに全面的に従いなさいということです。

  そこで、アブラハムは、早速、自分が勝手に立てた計画を、潔く(いさぎよ)引っ込めて、神のおことばに聞き従ったのです。これこそが、アブラハムの信仰でした。ですから、「主はそれを彼の義と認められた」のです。それは、同時に信仰のいのちが彼の魂に吹き込まれた貴重な体験でした。

  ですから、預言者イザヤは、神に聞き従うことがまさにわたしたちの信仰体験の原点であることを、次のように強調しています。

  「わたしに聞き従えば 良いものを食べることができる。あなたたちの魂はその豊かさを楽しむであろう。耳を傾けて聞き、わたしのもとに来るがよい。

聞き従って、魂にいのちを得よ」と(イザヤ書55 2節から3節)。 

「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け。」 

  次に、今日の福音では、ペトロ、ヨハネ、ヤコブの三人の弟子たちが、イエスのご変容を目撃できたとう素晴らしい体験が報告されています。実は、これは、イエスが初めて、ご自分の受難と復活の予告をなさった直後の出来事だったのです。今日の福音のマタイの並行箇所では、そのイエスの予告に対してのペトロのあからさまな反応が、次のように詳しく語られています。

  「このときから、イエスは、ご自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。『主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。』イエスは振り向いてペトロに言われた。『サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。』と」。

  ペトロも、アブラハムと同じように、神の思いを全く無視して、一方的に自分の思いによって行動してしまったのです。つまり、ペトロが人間の思いにとらわれていたので、神の思いを受け入れることができなかったのです。

  ですから、イエスは、弟子たちの中から特に三人をお選びになり、ご自分の復活の栄光の輝くお姿を、わざわざ垣間見せて(かいまみ)くださったのです。

  そこで、ペトロ、ヨハネ、そしてヤコブを連れて山に登られ祈っておられたイエスのお姿が急変しました。特にマタイの並行箇所では、詳しくその様子を、次のように描写しています。

  「イエスの姿は彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった」と(マタイ福音書172節)。

  そして、そこにこれまた栄光の包まれて現れたのが、旧約時代を代表するモーセとエリヤです。しかも、この二人がイエスと話した内容は、イエスがすでに弟子たちに予告なさたエルサレムにおける最期(さいご)つまり十字架上の死と復活だったのです。

  そこで、天の御父から極めて大切なおことばが与えられました。

  「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」という声が、雲の中から聞こえたのです。とにかく、神ご自身が、イエスを「神の子」であると宣言なさったのです。そして、ここでは、「選ばれた者」となっていますが、イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けられたときは、天の御父が、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う(かな)者」と、同じように宣言なさいました(マタイ福音書317節)。

  そして、わたしたちにとって極めて大切なおことばは、「これに聞け」とう天の御父のご命令です。なぜなら、わたしたたちの信仰の原点は、まさに「イエスに聞き従う」ことに他ならないからです。このことを、パウロは、次のようの教えてくれます。

  「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストのことばを聞くことによって始まるのです」と(ローマの信徒への手紙10 17節)。ですから、具体的には、日々、聖書を開いてイエスのおことばを、深く味わうということを、家族ぐるみで実行することです。

  この四旬節の間、共同体全体が、日々、忠実にイエスに聞き従うことができるよう、共に祈りたいと思います。

主の変容(イコン)

四旬節第1主日・C年(10.2.21

「主を拝み、ただ主に仕えよ」

  四旬節にあたって 

  今年も、先週の「灰の水曜日」から四旬節に入りました。復活徹夜祭に洗礼を受ける洗礼志願者の準備期間でもあるこの四十日間は、共同体ぐるみで、それこそ信仰の原点に立ち返り、償い(つぐな)と回心のわざに励む恵みの期間であります。

  ですから、この説教の(あと)に、早速「洗礼志願式」を行い、共同体が洗礼志願者のために祈りをささげます。  それでは、いつものように今日の聖書朗読の箇所を、手がかりにまず、キリスト者の生き方の基本について少し振り返ってみたいと思います。

神の救いの御業(みわざ)を思い起こす 

今日(きょう)の第一朗読は、旧約聖書にある『申命記』からとられています。実は、この『申命記』という書物のタイトルですが、「重ねて命じられた書」という意味です。その内容としては、モーセが死を目前(もくぜん)にして、ヨルダン河の向こう側のモアブの地で、イスラエルの民全体に向かって守るべき律法について改めて、あたかも彼の遺言として語ったという設定になっています。それは、まず、イスラエルの民が、エジプトの奴隷の家から神の力によって奇跡的に解放されたことを思い起こしています。そしてさらに、四十年間の長きにわたって荒れ野を旅してやっとたどり着いた約束の地、乳と蜜の流れるカナンをヨルダン川の対岸にのぞみながらイスラエルの全会衆がモーセの前に集まっています。そこで、カナンに入ってからも忠実に守るべきことを、モーセが切々と語ったというスタイルで書かれています。

  ですから、今日の箇所は、イスラエルの非常に古い「信仰告白」を含んだ内容になっています。まず、環境設定としては、年ごとに祭司が、会衆の手から初物(はつもの)を入れた(かご)を受け取って、聖所の主の祭壇に供えます。次に、会衆全員が次のような信仰告白を一緒に唱えたのです。

  「・・・わたしたちの先祖の神、主に助けを求めると、主はわたしたちの声を聞き、わたしたちの受けた苦しみと労苦と虐げ(しいた)をご覧になり、力ある御手(みて)()(うで)を伸ばし、大いなる恐るべきこととしるしと奇跡をもってわたしたちをエジプトから導き出し、この所に導き入れて乳と蜜の流れるこの土地を与えられました」と。

  つまり、神から与えられた恵みとは、作物の生育(せいいく)にふさわしい天候ではなく、「滅びゆく(いち)アラム人に」にすぎなかった先祖を、神がエジプトの奴隷の家から導き出し、「乳と蜜の流れるこの土地」を与えたこと、すなわち救いの歴史における神の導きこそが、恵みであると告白しているのです。

  ですから、わたしたちも日々の食卓を囲み、家族がそろって食前、食後の祈りをするときには、目に前にある食物に対して感謝するだけではなく、さらに神の救いの大いなる御業(みわざ)を思い起こすために聖書の朗読をも加えることができます。とにかく、毎日、神に心を開き、神のみことばを深く味わうことが肝心です。ちなみに、この四旬節中、『教会の祈り』の「初めの祈り」では、「今日(きょう)、神の声を聞くなら、神に心を閉ざしてはならない」と、繰り返します。

みことばはあなたの口、あなたの心にある 

  ところで、今日の第二朗読でも、パウロは、初代教会の基本的な信仰告白を教えてくれます。

  「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。・・・『主の名を呼び求める者はだれでも救われる』」と。

  そして、パウロは、さらに次のように語り続けます。

  「ところで、信じたことのない(かた)を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない(かた)を、どうして信じられよう。また、()べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。遣わされないで、どうして()べ伝えることができよう。・・・実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストのことばを聞くことによって始まるのです」と(ローマの信徒への手紙10 14節から17節)。

  ですから、何よりもまずそれぞれの家庭で、特に子どもたち、若者たちに繰り返しキリストのことばを語り聞かせることは、親の大切な責任であります。

  このことは、すでにモーセの時代から守るべきことであったと、次のように語られています。

  「今日(きょう)わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子どもたちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝るときも起きているときも、これを語り聞かせなさい」と(申命記66節から7節)。 

人は主の口から出るすべてのことばによって生きる 

  ところで、今日(きょう)の福音が伝えるイエスが悪魔の誘惑に打ち勝った出来事ですが、すべては旧約聖書の申命記からのみことばが力強い武器となっています。

  まず、最初の誘惑ですが、四十日間の断食の(あと)、空腹で苦しんでいるイエスに悪魔は、語りかけます。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ」と。それに対して、イエスは毅然(きぜん)として言い返されます。「人はパンだけで生きるものではない」と。実は、この言葉は、申命記からの引用ですので、その大切な次のような文脈を、ここで紹介したいと思います。

  「あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し(ため)、あなたの心にあること、すなわちご自分の戒め(いまし)を守るかどうかを知ろうとされた。主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はバンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべてのことばによって生きることを、あなたに知らせるためであった」と(申命記82節から3節)。

  では、わたしたちはどうですか。信仰を生きていくためになくてはならない<いのちのことば>の大切さを十分に自覚していますか。しかも、信仰の喜びを体験できるためには、日々、みことばで心を満すために、聖書を読み、またみことばを聞くだけではなく、しっかり食べなければならないのです。とにかく、エレミヤのみことばの素晴らしい体験を、確認したいと思います。

  「あなたのみことばが見出されたとき わたしはそれをむさぼり食べました。あなたのみことばは、わたしのものとなり わたしの心は喜び踊りました」と(エレミヤ書1516節)。

  特に、この四旬節の間、毎日、できるだけ家族が一緒に聖書を開き、みことばを深く味わい分かち合うことができなら、まさに恵み満たされた四十日になるのではないでしょうか。

サタンの誘惑を受けるイエス 

年間第6主日・C年(10.2.14

「ひたすら神により頼むので幸いである」

 心が神から離れるなら 

  わたしたちは、ミサの前半の「ことばの典礼」で、主日のミサでは、毎回三箇所の聖書朗読があり、第二ヴァチカン公会議の典礼改革が目指した「信者にみことばの食卓の富を豊かに与えるために、聖書の宝庫を今まで以上に開かねばならない」(『典礼憲章』51項)のです。けれども、如何(いかん)せん、やはり聖書は特別な書物なので、どうしても説明が必要です。たとえば、今日の第一朗読の冒頭は、いきなり神の呪いで始まっています。しかしながら、このヘブライ語の原文は、むしろ「無意味な生き方をしている者を()の当たりしたときの神の切なる思い」とでも言いましょうか。つまり、それは、神にではなく、「人間に信頼し、肉なる者を頼みとし その心が主を離れ去っている人」の生き方がいかに空しい(むな)ことかと嘆かれる神のため息ではないでしょうか。

  ですから、また、わたしたちに対する厳しい警告の響きとも受け止めることができます。すなわち、わたしたちは、一体何をよりどころとして、毎日生活し、働いているのかという根本的な問い掛けであります。なぜなら、日々、神の祝福に満たされる条件は、ただ、ひたすら神にのみ寄り頼むこと以外に何もないからです。ですから、エレミヤは、叫びます。

  「祝福されよ、主に信頼する人は。主がその人のよりどころとなられる」と。

  そして、それは同時に、神の掟と教えに忠実に従う生き方を実践することでもあります。

  ですから、先ほどの答唱詩編で次のように歌いました。

  「しあわせな人、神を畏れ、主の道を歩む者。しあわせな人、罪びとの道を歩むことなく、神の掟を喜びとし、昼も夜も教えを心に留める人。

  流れのほとりに植えられた木か、季節になると豊かに実り、葉もしおれることのないように、この人の行いも実を結ぶ」と。 

すべての人の中で最も惨めな者

ところで、パウロは、わたしたちの生き方は、現在から未来を見るのではなく、実は復活の栄光の光で、現在の現実を直視することの大切さを、次のように教えてくれます。

  「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足らないとわたしは思います」と(ローマの信徒への手紙818節)。

  また、特にわたしたちの避けることのできない死を、あくまでも復活の視点でとらえることは、まさにわたしたちの信仰の核心に触れることではないでしょうか。ですから、わたしたちは、次のようなイエスのおことばを、心から信じて死を迎えることができるのです。

  「わたしは復活であり、いのちである。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」と(ヨハネ福音書1125節から26節)。

  ところで、パウロは、今日の第二朗読で、「この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です」と、断言しています。

  とにかく、わたしたちがこの世で耐え忍ばなければならないあらゆる苦しみ、そして特に決して避けることのできない死をどのように受け止めることができるのか、まさにわたしたちの復活信仰にかかっています。

  以前、愛する部下が46歳の若さで突然亡くなりその、悲しみに打ちひしがれていた社長さんが、彼の追悼ミサに参加した(あと)、その会食の席で、わたくしに話してくれました。「今日のミサはすばらしかった、わたしも、せめて今日一日だけでもいい、復活を信じたいです」と。 

ひたすら神により頼むからこそ、幸いである 

  ところで、今日の福音は、マタイが語る「山上の説教」の冒頭の箇所のいわばルカ版です。しかも、ルカのほうでは、マタイが全く触れていない「不幸」についても簡潔に語っています。おそらく、ルカは、わたしたち一人ひとりの具体的な生きざまに焦点を当てているのではないでしょうか。

  まず、いきなり、直接弟子たちに語りかけます。

  「まずしい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである」と。

  つまり、弟子たちも貧しかったのですが、なぜ、幸いなのですか。それは、神の国は、まず優先的に貧しい人々の只中で実現する「神の愛といつくしみの支配」だからです。つまり、この世の権力や富に頼ることのできない貧しさの中にあればこそ、結局、頼ることのできるお方は、神のみということになるからです。

  ですから、すでに、第一朗読でエレミヤがいみじくも強調しました。「祝福されよ、主に信頼する人は。主がその人のよりどころとなられる」と。

  さらに、イエスは、ずばりおっしゃいます。「しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、あなたがたはもう慰めを受けている」と。つまり、同じ弟子たちが、注意しないと、ここで言われている不幸な状態にも陥る(おちい)ということです。

  イエスは、すでに警告なさいました。「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するいか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えるこことはできない」と(マタイ福音書624節)。ですから、たとえ自分自身が物質的にそれ程豊かでなくても、この世の富や権力に頼るならば、不幸なのです。

  あるいは、現代人が今日(こんにち)まで追求した進歩と発展、また繁栄を偶像化してしまう危険がいつもあるということです。ですから、イエスが荒れ野で体験した二番目の誘惑は、我々がいとも簡単に負けてしまうまさに今日的(こんにちてき)誘惑を、見事に示しているのではないでしょうか。

  「更に、悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。そして悪魔は言った。『この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。だから、もしわたしを拝むなら、それらすべては、あなたのものになる。』イエスはお答えになった。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と」(ルカ福音書45節から8節)。

  最後に、わたしたちキリスト者の生き方の基本についての、パウロの適切な勧めの言葉に耳を傾けたいと思います。

  「自分の体を神に喜ばれる聖なる・生ける<いけにえ>として献げなさい(ささ)。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」と(ローマの信徒への手紙121節から2節)。

 

年間第5主日・C年(10.2.7

「沖に漕ぎ出しなさい」

ゆるされた者の応答

   今日の第一朗読は、預言者イザヤの召命の場面を、極めて神秘的に描いています。まず、エルサレムの聖なる神殿で「高く天にある御座(みざ)に主が座しておられるのを見た」のです。とにかく、旧約聖書においても,新約聖書においても、人間は決し直接神を見ることはできないことになっています。ですから、このイザヤの特別な体験は、まさに神秘的なものであり、しかも神をあたかも王の姿で見ているのです。ですから、「天にある御坐(みざ)に座しておられる」だけではなく、その「(ころも)(すそ)は神殿いっぱいに広がって」いたのですから、まさに天と地が見事に結び合わされています。

  さらに天使たちまでもが、互いに神を賛美していたのです。「聖なる、聖なる、聖なる万軍(ばんぐん)の主。主の栄光は、地をすべて覆う」と。この天使の歌声に合わせて、わたしたちも、ミサで「感謝の賛歌」を毎回歌います。なぜなら、地上の典礼は、天上の典礼と確かに結びついていることは、すでに第二ヴァチカン公会議の典礼神学によって次のように説明されているからです。

  「地上の典礼において、われわれは天上の典礼を前もって味わい、これに参加している。この天上の典礼は、旅人(たびびと)であるわれわれが目指す聖なる(みやこ)、エルサレムにおいて行われており、そこにはキリストが、()聖所(せいじょ)(まこと)幕屋(まくや)の奉仕者として、神の右に座っておられる」と(『典礼憲章』8項)。

  では、このような極めて荘厳な典礼に与ることができたイザヤは、一体(いったい)どのような自分の姿に気付かされたのでしょうか。

  「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた民の中に住む者。しかも、わたしの目は王なる万軍(ばんぐん)の主を見た」と。

  実は、ここでは省かれていますが、ヘブライ語の原文には、「ああ」という、無限の情感のこもった悲しみと絶望を表現した、本来葬り(ほうむ)のときの嘆きの声が挿入されています。ですから「わたしは滅ぼされる」を、「わたしはもう駄目だ」とも訳せます。なぜなら、本来この言葉は、「絶滅する、破壊する、やめる」という動詞によって作られており、<自己の崩壊、内側からの全面的な崩れ(くず)>を表し、多くの場合「滅びうせる」と訳されるからです。

  さらに、イザヤは「わたしは汚れた唇の者」と嘆きます。「唇」とは、古代人にとっては自分の全存在を現すところと思われていたからです。したがって、5節全体は、「ああ、わたしは完全に内側から崩れている。わたしの全存在が汚れ、全存在が汚れた民の中にいる・・・」となります。つまり、紀元前世紀の人間イザヤは、われわれ現代人よりもさらに深刻な不安と絶望を体験していたのではないでしょうか。

  また、肝心なのはそこでイザヤが、さらに次のことを体験したことです。

  「するとセラフィムの一人が、わたしのところに飛んで来た。その手には、祭壇から火(ばさみ)で取った炭火(すみび)があった。彼はわたしの口に火を触れさせて言った。『見よ、これがあなたの唇に触れたので あなたの(とが)は取り去られ、罪は赦された』と」。

  とにかく、イザヤが「わたしがここにおります」と、神からの派遣を受け入れることができたのは、罪の赦しを体験できたからにほかなりません。「わたしはもう駄目だ」と絶望した人間が、今度はどうどうと神に向かって「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」と名乗り出ることができたのは、「あなたの(とが)は取り去られ、罪は赦された」という宣言を心底(しんそこ)に聞きとった人間の感謝に満ちた応答にほかなりまっせん。 

今、新たに福音に生きる 

  ところで、今日の第二朗読で、パウロはまさに福音の根幹が何であるかを再確認し、それを生きることの大切さを強調しています。それは言うまでもなく、イエスの十字架上の死、そして葬られた(ほうむ)こと、さらに三日目に復活したことであります。この福音の中心的メッセージは、実は、パウロも受けたものなので、パウロ以前にすでに原始教会において形成された伝承を含んでいます。つまり、キリストの死と復活が全く同等の意義を持つものとみなされているということです。つまり、キリストの死は復活によってはじめて意義を持つのではなく、たとえ復活と切り離されても、十分に独自の価値がある出来事なのです。ですから、イエスの復活がなければ、キリストの宣教は無意味になりますが、キリストの死には、「われわれの罪のために」という重大な(わけ)があるのです。

  ですから、福音を生活のよりどころとするなら、わたしたいはまた福音によって救われるのです。それは、日々、古い自分に死んで、つまり罪から解放されて新しい復活のいのちによって生まれ変わることのできる体験です。ですから、日々新たに福音を生きることを、パウロは次のように勧めてくれます。

  「古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られたあたらしい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません」と(エフェソの信徒への手紙422節から24節まで)。 

少し漕ぎ出す(こぎだす)ように 

  次に、今日の福音で、一晩中働いても何も獲れなく()全くの徒労(とろう)に終わってしまったペトロに向かって、イエスは、もいう一度「沖に漕ぎ出しなさい」と命令なさいました。イエスは、大工の息子であって(りょう)関しては、全くの素人(しろうと)です。湖の魚は、普通は水の温度が高い浅瀬に群がる習性があるそうです。ですから、ペトロも、漁師としては、改めて沖に漕ぎ出すことは、決してしなかったのではないでしょうか。けれども、ペトロは、イエスのおことばに全面的に信頼して、答えました。「しかし、おことばですから、網をおろしてみましょう」と。

  教会は、ペトロのようにイエスのおことばに信頼して、絶えず新たなチャレンジをすべきではないでしょうか。

  昨年のクリスマスには、地域の人々にポスターやちらしを使って勇気をもって呼びかけました。見知らぬ人たちに、ちらしを配り、また一度も行ったことのない店にポスターを貼ることは、まさに沖に漕ぎ出したことだと思います。教会は、今まで以上に地元の人々との接点を積極的に切り拓くことが大切です。確かに、わたしたちは、ペトロと同じようにイエスの前にひれ伏し、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い(つみぶか)者なのです」と、告白しなければなりませんが、同時にすべてを捨てて生涯かけてイエスに忠実に従ってこそ、まさに福音を信じ、福音に生かされている(まこと)のキリスト者になれるのではないでしょうか。

  共同体ぐるみで、「福音を()べ伝えなさい」というイエスのご命令を、忠実に実践できるように共に祈りたいと思います。

ラファエッロ《奇跡の漁獲》

年間第4主日・C年(10.1.31

「諸国民の預言者として立てた」

キリストの預言職に与っている

今日(きょう)の第一朗読は、紀元前七世紀から六世紀にかけて南のユダ王国で活躍した預言者エレミヤが、預言者としての召命を受けたときのことを、極めて簡潔に報告しています。

   「わたしはあなたを母の胎内で造る前から、あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に、わたしはあなたを聖別し 諸国民の預言者として立てた」と。こんな不思議なことが、実際にわたしたちにも起こり得るのでしょうか。

   実は、パウロはその手紙の中で、預言者だけではなく、すべてのキリスト者は、生まれる前から神に選ばれるという召命をいただいていることを、次のように強調しています。

   「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、ご自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子としようと、御心(みこころ)のままに前もってお定めになったのです」と(エフェソの信徒への手紙14節から5節まで)。

   つまり、預言者エレミヤの体験は、まさにすべてのキリスト者にも当てはまる預言職への召命だったのです。ですから、第二ヴァチカン公会議は、すべてのキリスト者が、洗礼を受けることによってキリストの預言職に与ることができることを、次のように教えています。

   「生活のあかしと、みことばの力とをもって、御父(おんちち)の国を宣言した偉大な預言者キリストは、栄光を完全に現すときが来るまで、ご自分の名と権能によって教える司祭たちだけではなく信徒によっても、ご自分の預言職を果たすのです」と(『教会憲章』35項)。それは、具体的には、日常生活のただ中で、キリストの福音を、まず生き方によってあかしするだけはなく、ことばと行いによって、キリストを一人でも多くの人々に伝える使命を実践することにほかなりません。ですから、パウロは次のように力強く勧めてくれます。

   「みことばを()べ伝えなさい。時節(じせつ)が良くても悪くても[これに]勤しみ(いそ)[口答えする者がいれば]云い聞かせ、誡め(いまし)なさい。忍耐強く、十分に教えるのです。だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け(そむ)作り話(つくりばなし)のほうにそれて行くようになります。しかし、あなたは、どんな場合にも身を慎み、苦しみを耐え忍び、福音宣教者の使命に励み、自分の務め(つと)を果たしなさい」と(テモテへの手紙二4章から5節)。

   特に、今日の日本の教会においては、まず子どもたちや若者たちに聖書をしっかり教えることを、最優先課題としなければなりません。例え、幼児洗礼を授け、そして小学生で初聖体を受させても、中学生になって部活や受験勉強などで主日のミサにも参加できないような現状です。今のままですと、信仰は次世代に果たして確実に伝わっていくのでしょうか。極めて、深刻な問題です。 

教会こそ愛の共同体であるべき

また、以前、間接的にですが、聞いたことがあります。「わたしたちの教会の今の実態では、キリスト教に関心のあるお友達を誘うこともできません。最近の教会の雰囲気は、対立や派閥争いのような醜い実態が表面化して来ているにも関わらず、司祭たちはそれを見て見ぬふりをしている。だから、もう維持費なども払う気持ちにはなれません」と。

   勿論、教会はその誕生から今日(こんにち)にいたるまで、どの時代においても決して完全な姿を示したことは一度もありませんでした。だからこそ、教会は世の終わりまで、絶えず刷新されなければならないのです。ですから、力の論理や能力主義などの世間的価値観を、教会の中に決して持ち込まないだけではなく、

まさに初心にかえってキリストの望まれる愛の共同体を、皆で心を合わせて育てることが肝心です。弟子たちと別れるに当たって、イエスは極めて大切なことについて念を押されました。

   「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合い愛なさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」と(ヨハネ福音1334節から35節)。先日、近くの老舗(しにせ)を訪ねたとき、年配の店のご主人は、この教会が創立されて百年以上も経って()いることを全く知りませんでした。とにかく、教会の存在を地域に知らせる、まさに生きた看板は、共同体のメンバーが互いに愛し合い(まこと)の一致と交わりをあかしすること以外にはありません。

イエスを崖から突き落とそうとした故郷の人々

ところで、今日(きょう)の福音は、イエスの同郷人であるナザレの人たちが、最初に宣教活動を地元の会堂で始めたイエスを、歓迎するのではなく、なんと崖から突き落とそうとまでしたという恐ろしい出来事を伝えています。

   確かに、最初は、「イエスをほめ、その口から出る恵み深いことばに驚いた」のですが、結局、「この人はヨセフの子ではないか」と云って、イエスに、もろに躓いてしまったのです。実は、マルコの並行箇所ではその時の人々の反応を次のように詳しく伝えています。「『この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡は、いったい何か。この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。』このように、人々はイエスにつまずいた」と(マルコ福音62節から3節)。とにかく、なぜ、このように最初の「驚き」が、「つまずき」に終わってしまっただけではなく、ルカによればイエスが語ったことに対して「皆憤慨し、総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした」のですか。

   その理由は、まず同郷人たちのイエスに対して抱いていた先入観と固定観念です。「この人は大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか」と、(あたま)っから決めつけて、目の前にいるイエスの実像を全く理解できなかったことが原因です。ですから、わたしたちも同じ過ちに陥る可能性は十分にあり得ます。つまり、わたしたちのイエスに対する具体的な反応を振り返ってみれば気がつくことではないでしょうか。例えば、日々、イエスの語られるおことばに耳を傾けなければ、遅かれ早かれイエスがどのようなお方(かた)のかが分からなくなってしまいます。あるいは、例え毎週ミサに忠実に参加していても、もし、聖書を通してイエスを体験的により深く理解していくことを怠るならば、結果的にイエスを自分の生活から追い出してしまうことになるのではないでしょうか。キリストの預言職に与っているからには、当然、日々イエスからみことばをいただき、それをまず身近な人たちと分かち合うことです。また、愛の共同体を皆で心を一つにしてしっかり育てていくことです。「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず。高ぶらない。礼を失せず(しっ)、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。・・・すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」。

 

年間第3主日(10.1.24

「この聖書のことばは、今日、実現した」

神のことばを聞いて泣いていた

   今日の第一朗読は、旧約聖書にある『ネヘミヤ記』からとられていますが、この書物は、第二神殿時代つまり、イスラエルの(おも)だった人たちが、バビロンの捕囚からようやく解放された時代の歴史を語っています。ちなみに第二神殿時代と云われるのは、紀元前587年にバビロニア帝国の軍隊によって破壊されたエルサレムの神殿を、帰国してから早速その再建にとりかかり515年に再び神殿を建て直すことができた時代だからです。

   とにかく、あの50年以上にわたる苦しみと屈辱の捕囚時代にこそ、実は、イスラエルの信仰はその試練のお陰で強められユダヤ教の土台を築くことができたのです。そして、今日(きょう)の朗読箇所からも分るように神のことばを、まさに信仰の原点の土台として確立したのです。それは、次のようなくだりからも、当時のイスラエルの民の神のことばに対する確固たる信仰を、うかがい知ることができます。

   「祭司エズラは、・・・理解することのできる年齢に達した者に向かって、夜明けから正午までそれを読み上げた。民は皆、その律法の書に耳を傾けた

・・・彼らは神の律法の書を翻訳し、意味を明らかにしながら読み上げたので、人々はその朗読を理解した。・・・民は皆、律法のことばを聞いて泣いた」と。

   ちなみにここで云われている「律法」とは、旧約聖書にある『モーセ五書』といわれる、『創世記・出エジプト記・レビ記・民数記・申命記』のことです。

   このように、祭司エズラの聖書朗読が、まさにユダヤ人信仰共同体の(いしずえ)の一つなっていることは、極めて確かなことです。そこで、会衆が、みことばを聞いて感動して涙を流したのは、なぜでしょうか。それは、おそらく長い捕囚時代の(あと)なので、帰国後(きこくご)の自分たちの生活の再建のためにエネルギーを費やしてしまった結果、神のことばが生活に根差さないままに、それこそ生活に流されていたときに改めて聞いた神の言葉なので、まさに新たな感動がよみがえって来たのではないでしょうか。

   ちなみに、第二神殿時代の前の世紀に書かれたと思われる第二イザヤの預言に、次のようなくだりがあります。

   「わたしに聞き従えば 良いものを食べることができる。あなたの魂はその豊かさを楽しむであろう。耳を傾けて聞き、わたしのもとに来るがよい。聞き従って、魂に命を得よ」と(イザヤ書552節から3節)。 

体の分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合う

   次に、パウロは今日の第二朗読において、みことばによって育てられる信仰共同体の本来あるべき姿を、次のように(からだ)のイメージを使って説明してくれます。

   「皆一つの(からだ)となるために洗礼を受け、皆一つの霊を飲ませてもらったのです。(からだ)は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。・・・そこで神は、ご自分の望みのままに、(からだ)に一つ一つの部分を置かれたのです。・・・だから、多くの部分があっても、一つの(からだ)なのです。目が手に向かって『お前は要らない()』とは言えず、また、頭が足に向かって『お前たちは要らない』とも言えません。それどころか、(からだ)の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。・・・神は見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮しあっています」と。以前、聞いたことがあります、「日頃なにも問題がない時には、教会に行けるけど、ひとたび何か困ったこととか、辛い(つら)ことが起こったときには、教会には行きづらくなります」と。また、「親身になって話しを聞いてくれるのは信者さんではなくて、(ほか)の友人です」と。

   ですから、パウロは、さらに信者同士の関わり方がどうあるべきなのかを、極めてリアルに次のように強調しています。

   「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです」と。 

この聖書のことばは、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した 

   ところで、45年前に開催された第二ヴァチカン公会議が、最初に取り組んだのは典礼改革でした。そこで、聖書こそ典礼の源泉であることを、改めて確認しました。ですから、その『典礼憲章』において、特にミサにとって聖書がいかに重要であるかを、次のように説明しています。

   「典礼を祝うとき、聖書は最も重要である。聖書から朗読が行われ、説教によって説明される。聖書から詩編が歌われ、聖書の息吹と感動から典礼の祈りや祈願や聖歌がわき出し、また行為としるしが聖書からその意義を受けるのである。・・・

信者に神のことばの食卓の(とみ)を豊かに与えるために、聖書の宝庫を今まで以上に広く開かなければならない。・・・典礼の(こよみ)に従って、聖書に基づいて、信仰の神秘とキリスト教生活の諸原則を説明する説教を、典礼そのものの一部として、大いに奨励する」(245152項)。

ですから、今日(きょう)の福音も、ユダヤ教の会堂で行われた典礼で、イエスがたまたまイザヤ書を朗読なさり、その巻物を係の者に返され、厳か(おごそ)に次のように宣言なさいました。

「この聖書のことばは、今日(きょう)、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と。そうです。みことばは、典礼においてこそ改めてことを起こすのです。つまり、聖書が典礼において朗読されるとき、イエスご自身が、実にその中に現存されるだけではなく、語られた内容を再びイエスご自身が実現させてくださるのです。

このことを、『朗読聖書の諸言(しょげん)』は、次のように説明しています。

「そのときこそ、何よりも神のことばに依存し、支えられる典礼祭儀そのものが新しい出来事になり、新しい解釈と新しい努力によって、ことばそのものが豊かになるのである。・・・実に、救いの働きは、神のことばによって絶え間なく新たにされ、拡充されるのであるが、それは典礼行為において完全な意味をもつものとなる」と(34項)。

わたしたちの共同体が、日々みことばによって養われ、育てられ、強められ、地域の人々にみことばを伝えていくことができるように、共に祈りたいと思います。

イスラエル第2神殿(模型・山浦玄嗣 氏作)

年間第2主日・C年(10.1.17

「栄光を現わされ、弟子たちは信じた」

年間にあたって 

   先週、わたしたちは「主の洗礼」を祝いました。そして、火曜日からまた教会歴の「年間」に入りました。教会歴で「年間」というのは、(ほか)の季節以外の期間のことで、キリストの救いの神秘の特別の出来事を祝う例えば「復活節」とか、「降誕節」とは異なり、いわば「キリストの神秘全体を追憶する季節」と言えましょう。ですから、今日が、「年間第2主日」となるのです。 

今日(きょう)のミサのテーマ 

   では、今日(きょう)の聖書朗読箇所から、あえてひとつのテーマに設定るならば「イエスの栄光が現わされ。霊の賜物で満たされた信仰共同体」となりましょうか。 

その栄光が現れ、弟子たちはイエスを信じた

そこで、まず、今日(きょう)の福音をもう一度少していねいに読み返してみましょう。今日の福音は、新約聖書にある四つの福音書の四番目の福音書つまり『ヨハネ福音書』からとられていますが、これが書かれたのは、おそらく一世紀(まつ)のヨハネ共同体であったろうと推測されます。ところで、この福音書では、「奇跡」という言葉の代わりに「しるし」という言葉が使われています。ですから、11節では、「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って」となっています。それでは、今日の福音が語たる奇跡つまりしるしのメッセージは、一体何なのかを、ご一緒に考えてみましょう。

   まず、場所ですが、ガリラヤ地方のカナという町です。場面は、婚礼の披露宴です。そこには、弟子たちもマリアも一緒に招かれていました。結婚式の祝宴といえば、「所変われば品変わる」で、とにかく聖書が語る婚礼のお祝いは極めて盛大なもので、その祝宴は、長い時には、なんと二週間も続いたそうです。ところで、聖書において婚礼は、しばしば、神とイスラエルとの関係を夫婦の関係になぞらえるので、神の国の到来が婚礼の食卓として祝われるというイメージが用いられます(マタイ221-14参照)、たとえば、マタイ福音書の25章では、「十人のおとめ」のたとえが語られており、花婿の到着が遅くれたとき、ともし火の油を用意してなかった愚かなおとめたちは、主人から「わたしはお前を知らない」と怒鳴られ閉め出されたように、主が再び来られるその日、その時を知らないという救いの完成つまり終末のイメージとして使われています。

   とにかく、今日の福音が語る場面は、婚礼の祝宴です。ところで、とんだハプニングが起こったのです。何と、肝心のぶどう酒が、全くなくなってしまったというのです。これは。あくまで勝手な推測ですが、客に中に誰か大酒(おおざけ)飲みがいたのか、それとも、最初から準備したぶどう酒の量が足りなかったのでしょうか・・・とにかく、ぶどう酒がまったく切れてしまっていることに真っ先に気づいたのは、なんとマリアだったのです。これは。少し横道に逸れる()かも知れませんが、もしかして。わたしたちが抱えて(かか)いる困難に、真っ先に気づいてくださるのがマリアなのかも知れません。ですから、毎日ロザリオの一連でも唱えるべきではないでしょうか。

   ところで、マリアは、その責任者の世話役にではなく、真っ先にイエスに報告したのです。これこそ、「マリアの取り次ぎ」ではないでしょうか。

   けれども、ここで問題なのは、イエスの反応です。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです」と、一見(いっけん)、冷淡な拒絶とも受け止められるようなお言葉です。しかも、ご自分の母親に向かってなぜ「婦人よ」と改まった(あらた)言い方をなさったのでしょうか。ところで「婦人よ」といえば、イエスが十字架上でも、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言って、弟子のヨハネを指しています。とにかく、この婚礼の場面での、このイエスの呼び方には、おそらく重大な意味が込められていたのではないでしょうか。つまり、イエスがはっきりと付け加えられた「わたしの時は、まだ来ていません」という理由です。実は、この「わたしの時」あるいは「イエスの時」というのは、ヨハネ福音書では大切なキーワードの一つになっています。たとえば、12章の23節では「人の子が栄光を受ける時が来た」と宣言しておられます。つまり、「イエスの時」というのは、十字架に(はりつけ)にされる時、死者の中からあげられ、同時に天にあげられる時、つまり復活させられる時などがすべて同時に実現するときなのです。

   ですから、カナの婚礼の席上には、このときがまだ来ていなかったのです。ところが、マリアは強引(ごういん)に早速召使たちに命令します。「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と。

   ところで、そこにすでに用意されていたのは、「ユダヤ人が清めに用いる石の水がめ六つ」です。これは、当時の習慣によって、食卓に着く前と(あと)に特に手を洗うために使う水のことでしょうが、少し突っ込んだ視点で見るならば、結局、この水がめの水をユダヤ教のシンボルととらえるならば、イエスによって極上(ごくじょう)のブドウ酒に変えられてしまったということは、神の国の食卓を喜びで満たすことができるのは、最早(もはや)、ユダヤ教ではなくイエスご自身にほかならないということではないでしょうか

   とにかく、この婚礼の席上でイエスのその栄光を現されたのです。ですから、弟子たちが、イエスを信じることができたのです。 

霊の賜物に満たされた共同体を育てる

したがって、パウロは今日の第二朗読で、イエスのからだである教会は、復活の栄光に輝くキリストから聖霊を吹き入れられた共同体なので(ヨハネ20.22参照)、当然のことながら霊の賜物(たまもの)つまりギリシャ語ではカリスマが与えられていると次のように強調します。

   「賜物にはいろいろありますが。それをお与えになるのは同じ霊です。・・・一人一人に“霊”の働きが現れるのは、全体の益となるためです。・・・

これらすべてのことは、同じ唯一の“霊”の働きであって、“霊”は望むままに、それを一人一人に分けてくださるのです」と。ですから、教会においてこそ、それぞれがいただいている霊の賜物をまさに生かして合って共同体全体のために役立てなさいということです。各人の霊の賜物は、自分の(ふところ)にしまっておくものでもなく、まして自分の自慢にすることでもありませんすべて教会のために使ってくださいとことです。そうするならば、例え人数が少なくともまさに霊的に豊かな教会となれるのです。ですから、教会は、全人類の救いと一致のしるしであり道具として、この世界に奉仕する使命と責任が委ねられている信仰共同体にほかなりません。

   また、与えられたこの新しい一年、わたしたちの教会が聖霊の賜物で満たされ、世界に奉仕できる共同体に力強く成長できるようにともに祈りたいと思います。

 カナの婚宴(部分)パオロ・ヴェロネーゼ

主の洗礼・C年(10.1.10

「聖霊と火で洗礼を授けられて」

祝福に満ちた希望に生きる

新しい年の初めに当たって、パウロは今日(きょう)の第二朗読で、極めて適切な勧めの言葉を与えてくれます。

   まず、「すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました」と。

そうです。わたしたちも、昨年、地域の人たちと共に、全人類の救い主イエス・キリストのご降誕を盛大に祝いました。この聖堂が、久々に二階を含めて満席なったのは、わたしたちが、クリスマスの本当の意味を、できるだけ多くの方々に、ポスターやチラシで知らせただけでなく、日頃からお付き合いのある方々に、声を掛けたことの努力の結果だったと思います。とにかく、「すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れた」のですから、救い主イエス・キリストを日々出会う人たちに知らせる大切な使命に忠実でなければなりません。ですから、クリスマス・シーズンはまさに福音宣教の絶好のチャンスだったのではないでしょうか。

   さらに、パウロは、力強く忠告してくれます。

   「その恵みは、わたしたちが不信心(ふしんじん)と現世的な欲望を捨てて、この世で、思慮深く、正しく、信心深く(ぶか)生活するようにと教えている」と。ところで、「不信心」とは、どんな有様(ありさま)言うのでしょうか。それは、神を無視した生き方ではないでしょうか。或いは、自分中心の勝手な態度をとってしてしまうので、結果的に日々の生活で例えば祈ることを怠っても、別に気にならなくなってしまうような生き様でしょうか。

   さらに「現世的な欲望」を、かなぐり捨てなさいということは、一体どういうことなのでしょうか。例えば使徒ヨハネは、それこそ歯に衣を着せないでずばり次のように警告します。「世も世にあるものも、愛してはいけません。世を愛する人がいれば、御父への愛はその人の内にありません。なぜなら、すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごりは、御父から出ないで、世から出るからです。世にある欲も、過ぎ去って行きます。しかし、神の御心を行う人は永遠に生き続けます」と(ヨハネの手紙一、2.15-17)。 

聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造り変える洗礼

さらに、パウロは、今日のテーマである洗礼について核心に触れ、次のように強調します。「わたしたちの救い主である神の慈しみと、人間に対する愛とが現れたときに、神は、わたしたちの行った義の(わざ)によってではなく、ご自身の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました。この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造り変える洗いを通して実現したのです」と。

   今日(きょう)、わたしたちは「イエスの洗礼」を、全世界の教会と心を一つにして祝っていますが、それは、同時に、わたしたちの洗礼についての理解を深める新たな恵みの日なのです。

   ですから、パウロは、洗礼の本質を次のように力説するのです。つまり、「わたしたちの救いは、洗礼において、聖霊によって新しく生まれ変わり、新たに創造されることなのです」と(ローマ6.3-11参照)。つまり、洗礼の秘跡は、まさに生涯かけて生きるすばらしい恵みなのです。それは、当然日々の生き方において、それこそ態度で示すべきなのです。つまり、洗礼によってわたしたちは決定的にキリストに結ばれ、古い自分つまり罪に死んで、神の新しいいのちに生まれ変わる体験にほかなりません。さらに、パウロは、次のような適切な勧めの言葉を与えてくれます。

   「だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向っている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた(つく)新しい人を身に着け、真理に基づいた(もと)正しく清い生活を送るようにしなければなりません」と(エフェソ4.22-24)。 

聖霊と火によって授かられたわたしたちの洗礼

ところで、今日の福音では、洗礼者ヨハネの洗礼とイエスが、聖霊と火によって授けてくださる洗礼とをはっきりと区別しています。ですから、イエスの先駆者であるヨハネは、説明します。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物(はきもの)のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」と。

   すなわち、ヨルダン川で、洗礼者ヨハネが授けていたのは、イエスの洗礼を受けるためのいわば準備の洗礼だったのです。つまり、ヨハネの「水による洗礼」は、聖霊によって救いがもたらされる「イエスの洗礼」への言わば準備段階としての「罪からの改心」としての「悔い改めの洗礼」だったのです(マルコ1.4参照)。

   ですから、」イエスの洗礼こそ、わたしたちに聖霊をも注ぎ救いの完成に導く秘跡なのです。ということは、福音記者ルカは、「聖霊と火で授ける洗礼」こそが、イエスのわたしたちに授けてくださる洗礼なので、信仰生活において如何に聖霊の働きがなくてはならないかを強調していると言えましょう。

   ところで、実は、イエスもこのヨハネから洗礼を受けられたのです。なぜでしょうか。どうして、悔い改めの必要が全くないお方イエスまでもが、このヨハネから洗礼を受けなければならなかったのですか。その答えは、マタイの並行箇所で、イエスご自身が、次のように説明なさいます。

   マタイによれば、イエスがヨハネから洗礼を受けられることを、実は、ヨハネ自身が、思いとどまらせようとして、イエスに(めん)と向って次のように言いました。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか」と。それに対して、イエスはお答えなりました。「今は、止めないで欲しい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」と(マタイ3.15)。まさに、わたしたちとまったく同じ立場に立たれたのです。

   ところが、「イエスが、洗礼受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降り(くだ)、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う(かな)者』という声が、天から聞こえた」のです。

   ここで言われている「天が開かれる」とは、ユダヤ黙示文学つまり、神の働きを極めて幻想的なイメージで描こうとする文学類型においては、神の隠れた神秘を神ご自身が明らかに示してくださることを意味します。また、「鳩」のイメージは、イスラエルの民を表します。つまり、救われる人々のシンボルなのです。ですから、イエスが鳩によって象徴されるものとして聖霊を受けられてということは、まさに救われるべきイエスラエルの民の代表者として聖霊を受けたことになるのです。つまり、イエスは、イスラエルの民を代表して彼らを導く聖霊とその特別な力を、天の御父から授かったということではないでしょうか。

   また、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という天の御父の声は、まさに御父の御子に対する特別な愛を表しています。つまり、イエスを、多くの人々から特定な者として選び出した御父の愛のことです。

   ですから、わたしたちもイエスと同じように、神から特別に選ばれた聖なる民つまり教会であるので、ペトロは次のように説明します。「あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。そうして、聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的な<いけにえ>を、イエス・キリストを通してささげない。・・・あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった力ある(わざ)、あなたがたが広く伝えるためなのです」と(ペトロ一、2.5-9)。

主の洗礼

主の公現(10.1.3

 「異邦人を照らす光」

今日の祭日の由来 

   まず、初めに今日の祭日の由来について少し説明したいと思います。

実は、すでに、四世紀の後半にはこの祭日は、東方教会だけでなく西方教会にも普及していました。例えば、ローマでは、降誕祭と並行して公現祭が祝われるようになりました。つまり、もともとは16日にベツレヘムの真夜中のミサで、まずイエスの誕生を祝い、その同じ日にそこから今度はエルサレムまで行進行列を行ない、そこで改めて公現を祝っていたのです。

その後()今日(こんにち)のように、降誕祭とは切り離して別個に「主の公現」を祝うようになったのです。

   しかも、マタイ福音書に基づいて、占星術(せんせいじゅつ)の学者たちの礼拝がテーマになり、教父(きょうふ)オリゲネス(185-254年)が、これら学者たちを、三つの贈物にちなんで三人としたのです。(のち)にこの三人の学者たちは、王にまつりあげられバルタザール、メルキオール、カスパールと呼ばれるようになりました。さらに、彼らのなんと(せい)遺物(いぶつ)1164723日にイタリアのミラノからドイツのケルンに移されたのを()に、三人の王に対する崇敬(すうけい)がドイツを中心に大変盛んになり今日に至っています。ですから、公現祭が、これら三人の聖人のお祭りという特徴を帯びるようになりました。けれども、「主の公現」の出来事そのものを祝うのが、今日の祭日の本来の意義であることは言うまでもありません。

 旧約の預言が実現した

    前置きは、このくらいにして、早速、第一朗読を手がかりに、今日の祭日の意義を、少し探って見たいと思います。

   今日の朗読は、便宜上第三イザヤ(つまり56章から66章まで)と呼ばれる箇所から採られておりますが、その中心部に当たる60章から62章の、実は冒頭に当たります。ところでその時代背景ですが、紀元前六世紀後半、すでに預言されていた神の栄光はさっぱり現れそうもないという時代です。ですから、そのような厳しい現実に失望し、結果的に神への信頼までもが弱まり始め、とうとう、人々は自分勝手な生き方に傾いていったのです。そのような状況のただ中で、第三イザヤは、「主の栄光」がシオンを満たす時が到来すると叫び、人々の目をなんとか神に向けさせようとしていたのです。

   ですから、今日の朗読で神が「あなた」と呼びかける相手は、言うまでもなくシオンつまりエルサレムです。今は確かにこのシオンは、暗黒(あんこく)の「闇」に沈んでいますが、必ず「主の栄光」があたかもスポットライトのようにシオンを照らし出すというのです。とにかく、この光を受けたシオンは、今度は広く外に向けてこの光を、力強く輝かせることができるようになると言うのです。こうして、諸国の民や王たちまでもが、シオンへと引き寄せられるという希望に満ちた預言なのです。

   ここで、この預言を今日(こんにち)の状況に当てはめてみましょう。

それは、まさに、世界的な規模で、極めて深刻な経済的危機やさまざまの深刻な問題の暗闇(くらやみ)が重く覆っている今日(こんにち)この世界のために、永遠のみことであるイエス・キリストがまた改めで生まれてくださったということではないですか。ですから、この偉大な救いの神秘を、すでに一世紀末、ヨハネ共同体が賛美しました。「<みことば>の内に<いのち>があった。この<いのち>は人間を照らす<光>であった。光は、闇の中で輝いている。闇は光に打ち勝たなかった。・・・すべての人を照らす(まこと)の光はこの世に来た。・・・<みことば>は人間となり、我々の間に住むようになった。我々はこの(かた)の栄光を見た。父のもとから来た独り子としての 栄光である。独り子は恵みと真理に満ちている」と(『新約聖書』フランシスコ会、ヨハネ1.4-14)。 

異邦人を照らす光

ところで、第二ヴァチカン公会議の重要な柱である『教会憲章』も、「キリストは諸民族の光であるから」という冒頭の言葉で始まっていますが、今日(きょう)の第二朗読で、パウロは、隠されていた神の救いの神秘が、キリストにおいて決定的に異邦人にも示されたことを、次のように強調します。「秘められた計画が啓示によって、わたしたちに知らされました。この計画は、キリスト以前の時代には人の子らに知らされていませんでした。今や“霊”によって、キリストの聖なる使徒たちや預言者たちに啓示されました。すなわち、異邦人が福音によってキリスト・イエスにおいて、約束されたものをわたしたちと一緒に受け継ぐ者、同じからだに属する者、同じ約束にあずかる者となるということです」と。

   したがって、すべての人を照らす光であるイエス・キリストの誕生を祝うということは、わたしたちの間つまりお互いの人間関係のただ中に来られてイエスを一人でも多くの人々に告げ知らせるためなのです。

   ベツレヘムの家畜小屋の飼い葉桶に寝かされている幼子イエスを、最初に発見したのは、羊飼いたちですが、彼らはその出来事を早速、人々に告げ知らせました(ルカ2.15-18参照)。わたしたちも、幼子イエスを、日々出会う人々に知らせましたか。毎年、殆どの日本人がクリスマスを迎えていますが、その本当の内容を全く分からないままそれを続けているとしたら、その責任はわたしたち信者にあるのではないでしょうか。

   実は、パウロ六世が、その使徒的勧告『現代世界における福音化』で、次のように力説しておられます。「福音を伝えることは、実に教会自身の本性に深く根ざした最も特有の恵みであり、召命です。教会はまさに福音を()べ伝えるために存在しています。つまり、神のことばを説き、教え、恵みを与える手段となり、罪人を神に立ちかえらせ、キリストの死と栄光の記念であるミサ聖祭によってキリストの<いけにえ>を永続させるために教会は、存在しているのです」と(14項)。 

幼子を拝み、黄金、(にゅう)(こう)(もつ)(やく)献げた(ささ)

ところで、今日の福音は、東方の占星術(せんせいじ)の学者たちが、不思議な星に導かれ、とうとう幼子イエスを見つけ出し、早速、「彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈りものとして献げた」と報告しています。では、わたしたちは、幼子イエスに何をお献げするのでしょうか。このことについてパウロは、適切な助言をしてくれます。「自分の体を神に喜ばれる聖なる・生ける<いけにえ>として献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神のみ心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」と(ロマ12.1-2)。

   このパウロの勧告を、この新しい年の日々の生活において、忠実に実践できるよう共に祈りたいと思います。

東方三博士の礼拝 ジョット

聖家族・C年(09.12.27

「神と人とに愛された」

聖家族の祝日 

   教会は、盛大の祭日は、伝統的に八日間かけて祝ますが、降誕祭の八日間の(なか)の日曜日を「聖家族の日」として特別に祝います。実は、この祝日は、比較的最近のことで、もともとは、十九世紀のカナダの教会の伝統に由来します。また、教皇レオ十三世は、この祝日の強力な支持者でした。その後(そのご)、ピオ十世は、1911年にこの祝日を暫定的に決め、そして1921年には教皇ベネディクト十五世が改めて導入しました。とにかく、この祝日のテーマは、「聖家族を模範するキリスト者の家族」であります。

   では、早速、今日の典礼の聖書朗読箇所をてがかりに、キリスト者の家庭のあり方について、少し考えてみましょう。

 この子を主に委ねます

    まず、今日の第一朗読は、サムエル記から採られて()いますが、イスラエルに王制が導入される前の指導者であった最後の士師(しし)サムエルの母親ハンナが主人公になっています。実は、夫エルカナにはもう一人の妻がおり、その子どもたちもいたのですが、このハンナは、主によって胎が閉ざされて()いたため、子宝には恵まれず、そのため悩み多い家庭生活を送っていました。そして、恒例(こうれい)の家族そろって神殿に詣で(もう)、礼拝し<いけにえ>をささげたときでした。その<いけにえ>の食事の(あと)、一人「ハンナは悩み嘆いて主に祈り、激しく泣いて」いました。そして、誓いを立てたのです。「万軍(ばんぐん)の主よ、はしための苦しみをご覧ください。はしために御心(みこころ)を留め、忘れることなく、男の子をお授けくださいますなら、その子の一生を(しゅ)におささげし、その子の(あたま)には決してかみそりを当てません」と。ところが、ハンナが主の御前(みまえ)であまりにも長く祈っているので、祭司エリは、てっきり彼女が酒に酔って()いるのだと勘違い(かんちが)し、注意しました。「いつまで酔っているのか。酔いをさましなさい」と。それに対して、ハンナは答えます。「いいえ、祭司様、違います。わたしは深い悩みを持った女です。ぶどう酒も強い酒も飲んではおりません。ただ、主の御前(みまえ)に心からの願いを注ぎ出しておりました」と。そこで、祭司エリは優しく言いました。「安心して帰りなさい。イスラエルの神が、あなたの乞い願う(こいねがう)ことをかなえてくださるように」と(サムエル記上1.1-19参照)。それから、今日の朗読箇所が始まるのです。

   わたしたちの家族にも、悩みや苦しみは付きまといます。その時、このハンナのようにひたすら神に寄りすがってその嘆きをすべて注ぎだすなら、必ず願いはかなえられるのではないでしょうか。なぜなら、わたしたちの「願い」が、神の「願い」にかなうものであれば、それは必ず実現するからです。このことは、今日の朗読箇所の27節からの次のようなくだりでよく分かります。

   「わたしはこの子を授かるようにと祈り、主はわたしが願ったことをかなえてくださいました。わたしは、この子を主にゆだねます。この子は生涯、主にゆだねられた者です」と。

   このように、神とハンナとの間を「願い」が行き来しています。ハンナは、母親としての素朴な「願い」を神に向け、神がそれを聞き届けてくださると、今度は神の「願い」に従って、サムエルを神にささげ、こうして「願われた者」が誕生したのです。このような「願い」の行き来の中でこそ、わたしたちの信仰が育まれる(はぐく)のではないでしょうか。とにかく、家庭こそ信仰を育てる大切な場なのです。

 どうしてわたしを捜したのですか

    ところで、今日の福音は、聖家族にも親子の意見の対立があったことを、あからさまに伝えています。イエスの時代には、律法の規定に従って過越祭には毎年(まいとし)エルサレムへの巡礼に参加していました。実は、この掟を守る義務は、満十三歳からですが、イエスの両親は、十二歳のイエスを連れてエルサレムへの旅をしたのでした。ところが、思わぬことが起こりました。八日間続いた過越祭が終わって、いざ帰路(きろ)についたとき、少年イエスは両親と(べつ)行動をとり、一人エルサレムの残ったのです。ところが、両親はそのことに全く気づきませんでした。つまり、イエスは(ほか)のグループの中にいると思い込んでいたのです。ですから、一日の道のりを歩いたとき、初めてイエスがいないことに気づき、さっそく親類や知人の間を捜し回りましたが、結局、見つけることができませんでした。ですから、両親はやむを得ずエルサレムに引き返しました。そして、やっと三日目になって、「イエスが神殿の境内でなんと学者たちの真ん中に座り、

話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた」のです。しかも、イエスの学者たちとのやり取りを「聞いていた人たちは皆、イエスの賢い受け答えに驚いていた」のです。まさに、「親の心子知らず」です。ですから、まず母親マリアは、きびしくイエスを叱りました。「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです」と。それに対して、まったく以外な答えが返って来ました。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」と。イエスの父の家は、ナザレにあるのではないですか。それなのに、なぜエルサレムの神殿がイエスの父の家なのでしょうか。つまり、このイエスの以外な答えによって、初めてイエスと天の父との特別な関係が明らかになったのです。けれども、両親はそのときは、まだこのイエスの言葉の意味を理解することができませんでした。ですから、マリアは「これらのことをすべて心の納めていた」のです。

   どの家族にも親子の意見の食い違いや、対立などの問題が起こり得ます。そこで、大切なのは、お互いがそれぞれの自己主張を通そうとするのではなく、

一体神はこれらの問題をどのように受け止められておられるのか、まさに神の御心を共に聞き質す(ききただす)ことが大切ではないでしょうか。乙女マリアも、天使ガブリエルからのお告げの内容が最初はよく理解できず、「どうして、そのことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」と、しっかり聞き質しました(ただ)。また、このイエスの理解できなかった行動のすべてを、心に納めで思い巡らし、天の御父の御心を行いました。

   そこで、わたしたちのそれぞれの家族においても、次のようなパウロの勧めの言葉を、忠実に実践するならば、幸せな恵みあふれる家庭を築いていくことができるのではないでしょうか。

   「自分の体を神に喜ばれる聖なる・生ける<いけにえ>として献げ(ささ)なさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」と(ローマ12.1-2)。

神殿で学者たちと議論する少年イエス

待降節第4主日・C年(09.12.20

「主のおっしゃったことは必ず実現する」

彼こそ、まさしく平和である

いよいよ待降節も最後の週になりました。ですから、主をふさわしくお迎えするために、準備の締めくくりのときです。

   早速、今日の聖書朗読箇所を手がかりに、今週、一体どのような心構え(こころがま)が必要なのかを、共同体として確認したいと思います。

   先ず、今日の第一朗読ですが、預言者ミカの(くち)をとおして、わたしたちが待ち望んでいるメシアがどのようなお方なのかを、改めて(あらた)教えてくれます。

   「エフラタのベツレヘムよ お前はユダ族の氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのために イスラエルを治める者が出る」と。実は、サムエル記上1712節によると、ダビデの父エッサイは、「ベツレヘム出身のエフラタ人」なのです。紀元前8世紀後半に南王国で預言活動を行っていたミカは、当時のエルサレムの現状に失望し、ダビデ王の生まれた町ベツレヘムに目を向けます。そこに住むエフラタ族は、ここで「お前はユダ族の氏族の中でいと小さき者」と言われているとおり、戦争の際には、千人隊(せんにんたい)を組むこともできないほどの小さな氏族(しぞく)でした。ところが、このいとも小さな氏族から、なんとダビデの血筋に属する理想の王としてのメシアが出ると言う預言であります。

   この王は、地上の権力に頼るのではなく、ひたすら「主の力」と「主の御名(みな)威厳(いげん)」(3節)によって群れを養うのです。つまり、この小さな氏族から出るこの王は、群れを決して過酷に支配するようなことはせず、むしろ手厚く養う良い羊飼いなのです。したがって、わたしたちはまさに「安らかに住まう」ことができるのです。

   さらに、このメシアの出生(しゅっしょう)は、実は「古く、永遠の昔にさかのぼる」のです。すなわち、神の救いのご計画は永遠の昔にまでさかのぼるほど古く、神は必ずメシアを遣わすと言う強い確信が示されています。そこで、この救いの計画を実現させるために、メシアは小さな部族から生まれますが、その「彼は大いなる者となります」。なぜなら、このメシアは、この地上の権力によるのではなく、神なる主の力により頼むので、かえって、その力を「地の果てに」まで及ぼすことができるのです。したがって、「彼こそ、まさしく平和であります。」つまり、このメシアこそ、この地上に(まこと)の平和をもたらしてくださる方にほかなりません。 

お言葉どおり、この身になりますように

次に、今日の福音には、二人の女性が登場します。それは、この福音記者ルカが描くご降誕の出来事の特徴で、女性に重要な役柄が与えられているからです。まず、マリアですが、同じルカ福音書の一章で天使ガブリエルからお告げを受ける次のような場面で初めて登場します。

   「六ヶ月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人の許婚(いいなずけ)であるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。・・・聖霊があなたに降り(くだ)、いと高き方の力があなたを包む。だから生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリザベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊(ふにん)の女と言われていたのに、もう六ヶ月になっている。神にはできないことは何一つない」と(26節〜37節)。

   まさに救い主の母親になるという重大な役割が告げられたのです。この神からの尊い使命が与えられると言うお告げに対して、マリアはどのように応えたのでしょうか。このお告げの内容を、真剣に受け止めることによって、次のように見事な信仰告白をいたしました。

   「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」と(38節)。ここで言われている「主のはしため」というのは、たとえば詩編123編の次のようなくだりを背景にした言い回しと考えられます。

   「目を上げて()わたしはあなたを仰ぎみます。天にいます(かた)よ。

ご覧ください、(しもべ)が主人の手に目を注ぎ はしためが女主人の手に目を注ぐように わたしたちは、神に、わたしたちの主に目を注ぎ 憐れみを待ちます」と。つまり、マリアの神に対する基本的姿勢は、まさに神の憐れみに心から信頼するということなのです。ですから、「お言葉どおり、この身に成りますように」と、天使をとおして告げられた神のみことばに自分自身を全面的に委ねきる(ゆだ)ことができたのです。 

主がおっしゃったことは必ず実現する

次に登場するのが、マリアの親類でイエスの先駆者洗礼者ヨハネの母親エリザベトです。このエリザベトは、夫ザカリアの不信仰にもかかわらず、天使ガブリエルのお告げどおり、ヨハネを身ごもってすでに六ヶ月経って(たっ)いたのです。

   このエリザベトが、マリアを自分の家に迎えたときの様子が、今日の福音です。とにかく、「マリアの挨拶をエリザベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった」のです。すでに、天使ガブリエルのお告げを通して聖霊と恵みに満たされたマリアは、その喜びをエリザベトと分かち合うために、遠いナザレからユダの町へ、山や丘を越えて恐らく、三、四日かかる旅路を急いだのです。

   このマリアのエリザベトに対する挨拶は、まさに神の祝福を運ぶ手立て(てだ)となっています。ですから、「マリアの挨拶をエリザベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった」のです。なぜ、そのような不思議な体験があったのでしょうか。それは取りも直さず、エリザベトがマリアの挨拶を受けたとき、まさに聖霊に満たされたからではないでしょうか。なぜなら、マリアはすでにお告げの場面で、「聖霊が降り(くだ)、いと高き方の力で包まれた」ので、そのすばらしい恵みを、エリザベトにも豊かに分かち合うことができたのです。

   ですから、エリザベトは、聖霊に満たされて、叫びました。

   「あなたは女に中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されていいます。わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょうか」と。

   ここで、エリザベトがマリアを「わたしの主のお母さま」と呼ぶことができたこと自体すでに、聖霊の働きがあったからにほかなりません(コリント一、12.3参照)。そして、エリザベトは極めて大切な発言をします。

   「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じたかたは、なんと幸いでしょう」と。マリアの幸せの(みなもと)は、このみことばに対する信仰です。ですから、「お言葉どおり、この身になりますように」と、信仰告白ができたのです。

   このように、ルカは、マリアをキリスト者の模範として描こうとしているのです。ですから、次のような場面をも伝えています。

   「ある女が群集の中から声高らかに言った。『なんと幸いなことでしょう、あなたを宿した(やど)(たい)、あなたが吸った乳房(ちぶさ)は。』しかし、イエスは言われた。むしろ、幸いなのは神のことばを聞き、それを守る人である』と」(ルカ11.27-28)。

   待降節を締めくくるに当たり共同体全体が聖霊に満たされ、ますますみことばに対する信仰が深まるように共に祈りたいと思います。

受胎告知 ボッティチェリ

待降節第3主日・C年(09.12.13

「主において常に喜びなさい」

イスラエルの王なる主はお前の中におられる

   待降節はいよいよ後半に入り、主が直ぐ(そば)に来ているので、喜びに満たされて待つことができることを、今日の典礼は意識させます。ですから、この待降節第3主日は「喜びの主日」とも言われます。(ちなみに、今日のろうそくの色は、喜びの色になっています。)

   では、早速、今日の第一朗読を読み返し、わたしたちに与えられる喜びの源を確認して見たいと思います。

   今日の箇所は、ゼファニアの預言から採られていますが、この預言者が活躍したのは紀元前七世紀のヨシュア王の激動の転換期の時代です。まさに、時代が激しく移り変わっていく最中(さなか)に、この預言者は、天使たちの次のような言葉を伝えたのです。

   「娘シオンよ、喜び叫べ。イスラエルよ、歓呼の声をあげよ。娘エルサレムよ、心の底から喜びおどれ」と。

   ここで言われている「娘シオン」とは、預言者たちが好んで使う言い回しで、エルサレムとその住民を指し、民に対する神の深い愛情を表しています。

   では、なぜ喜ぶことができるのでしょうか。その理由は、極めて明らかです。それは、主なる神がイスラエルに対する裁きを退け、敵を追い払われることによって、まさにイスラエルの只中におられるからです。

   ですから、わたしたちは、災いを恐れることは全くなくなったのです。

   とにかく、このような喜ばしい天使のことばを聞かされたので、わたしたちは人々に向って次のように叫ぶことができるのです。

   「シオンよ、恐れるな 力なく手を垂れる()な。お前の主なる神は お前の只中におられ 勇士であって勝利を与えられる。主はお前のゆえに喜び楽しみ 愛によってお前を新たにし お前のゆえに喜びの歌をもって楽しまれる」と。 

主において常によろこびなさい

   そして、今日の第二朗読は、パウロが西暦54年後半にエフェソの獄中からフィリピの教会に宛てた手紙から採られています。自分が獄中にあっても、「主において常に喜びなさい」と力強く励ますことができたのはなぜでしょうか。しかも、一時的(いちじてき)にではなく、「常に」喜びの状態に留まる(とど)ようにという勧めです。それは、パウロがはっきりと念を押しているように、(ほか)でもない「主において」初めて出来ることなのです。つまり、わたしたちがしっかり(しゅ)に結ばれているならば、常に喜びのうちに留まる(とど)ことが出来るのです。

   このことについて、実は、イエスご自身が、弟子たちと別れる際に切々と語ってくださいました。

   「わたしの内に留まって(とど)いなさい。そうすれば、わたしもあなたたちの内に留まって(とど)いる。・・・わたしはぶどうの木であり、あなたたちは枝である。人がわたしの内に留まって(とど)おり、わたしもその人に内に留まって(とど)いるなら、その人は多くの実を結ぶ。・・・わたしの言葉が、あなたたにの内に留まって(とど)いるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。・・・父がわたしを愛してこられたように、わたしもあなたたちを愛してきた。わたしの愛に包まれて常に生きなさい。あなたたちがわたしの掟を守るなら、わたしの愛に包まれて 常に生きることになる。・・・わたしがこれらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたたちのものとなり、あなたたちの喜びが満ち溢れるためである」と(ヨハネ15.4-11)。 

その方は、聖霊と火であなたたちの洗礼をお授けになる 

   ところで、今日の福音に登場するイエスの先駆者である洗礼者ヨハネは、群集に向ってイエスを迎えるために何をすればよいのかを、極めて具体的に教えています。とにかく、人々は真剣にヨハネに尋ねました。「わたしたちはどうすればよいのですか」と。それに対して、ヨハネは、答えます。

  「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」と。

  「規定以上のものは取り立てるな」と。

  「誰からも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」と。

   つまり、主を自分の生活に只中にお迎えするのにふさわしい生き方とは、例えば何か特別な厳しい修行(しゅぎょう)積む()ようなことではなく、むしろ日々の平凡な生活の中で、まず愛の実践に励むこと、そのためには、自己中心の生き方をキリスト中心の生き方に根本的な姿勢転換をすることにほかなりません。

   なぜなら、わたしたちは「聖霊と火で」イエスから洗礼を受けているからです。ですから、洗礼者ヨハネは、次のようにはっきりと教えてくれます。

   「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。・・・その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」と。

   確かに、洗礼者ヨハネは、イエスを迎える準備として悔い改めの洗礼を、ヨルダン川で大勢の人々に授けていました。そして、イエスご自身も、このヨハネから洗礼を受けらましたが、その時、イエスに上に聖霊が鳩のように降った(くだ)のです(ルカ3.22,参照)。また、聖霊降臨は、エルサレムにマリアを中心に集まっていた弟子たち一人ひとりの上に炎のような舌のかたちで聖霊が降った出来事でした。

   とにかく、わたしたちが受けた洗礼は、イエスご自身の次のようなご命令に基づいて授けられました。

   「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがと共にいる」と(マタイ28.18-20)。

   聖霊と火で授けられた洗礼の恵みこそ、まさに生涯かけて生きるすばらしい恵みです。それは、キリストにしっかり結ばれて新しいいのちを生きる者とされたからです。つまり、日々罪に死んで、復活のいのちの生まれ変わることができるのです。このキリスト者の生き方を忠実に実践するからこそ、常に喜びの状態にとどまることができるのです。つまり、ぶどうの木であるイエスの愛にいつも包まれているので、その枝であるわたしたちにイエスの喜びが豊かに伝わって来るのです。

   主が来られるのを目前に控えて、主イエスとの結びつきをより一層強めることとができるように共に祈りたいと思います。

 

待降節第主日・C年(09.12.6

「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」

栄光で永遠に飾れ 

   待降節は、救い主の降誕を待ち望むだけでなく、救いの完成の(あかつき)栄光に包まれて再び来られる王であるキリストをお迎えする準備の時期でもあります。イエスは、すでに荘厳に宣言なさいました。「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊(やぎ)を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい』と」(マタイ25.31-34)。

   ところで、今日の第一朗読は、神の栄光の訪れを美しく預言しております。この預言の歴史的背景ですが、紀元前587年に、イスラエル王国は、強国バビロニア帝国に滅ぼされ、王を初め(おも)だった人々がバビロニア帝国の首都であるバビロンの近郊に強制移住させられていた捕囚時代が始まったときでした。したがって、このバルクの預言は、捕囚地バビロンから、預言者エレミヤの書記であったバルクが、故国のエルサレムに書き送ったものとされています。

   「エルサレムよ、悲しみと不幸の衣を脱ぎ、神から与えられる栄光で永遠に飾れ。神から与えられる義の衣を身にまとい、(あたま)永遠なる者の栄光の冠をつけよ」と。

   実は、今日の箇所の前に語られた預言は、次ぎのように要約できます。我々は「神なる主に背き、主を軽んじて、御声(みこえ)に耳をかさなかった」ので、すでに預言者をとおして語られていた警告どおり、「災いと呪い」が現実となったけれども(1.15-22参照)、我々に「災いをもたらされた(かた)が、・・・救い、永遠の喜びを与えてくださる」と(4.25-29参照)。

   ですから、「エルサレムよ、悲しみと不幸の衣を脱ぎ」と、呼びかけているのです。つまり、エルサレムはその住民が捕囚地に連れ去られたので、あたかも子を亡くした母親のように「悲しみと不幸の衣」を着ていたけれど、今やそれを脱ぎ捨て、神が与える「義の衣」に着替え「栄光の冠」をつけることができるのです。なぜなら、東のバビロンから捕囚民が、いよいよエルサレムへの帰還を始めたからです。彼らは、「徒歩でエルサレムのもとを去った」けれど、今度は「神が彼らを、玉座につく王のように高く上げ、栄光のうちにエルサレムに連れ戻される」からです。しかも、神は「すべての高い山、果てしなく続く丘」には、「低くなれ」と命じ、「谷」には、「埋まって平地になれ」と命じられるのです。さらに、神の命令のよって木々が「木陰(こかげ)をつくり」、荒れ野の強い日差し(ひざ)からご自分の民を守られるからです。こうして、捕囚民は、捕囚地バビロンから、エルサレムへの旅路(たびじ)が、見事に整備されるので、安心して歩みを進めることができるからです。まさに神による解放の預言であります。 

主の道を整え、その道筋(みちすじ)をまっすぐにせよ 

   ところで、今日の福音には洗礼者ヨハネが登場し、メシアを迎える準備をするようにと呼びかけます。そこで福音記者ルカは、イザヤの預言のことばを引用しこのヨハネの役割を説明しています。つまり、洗礼者ヨハネこそ、イザヤの言葉にある「荒れ野で叫ぶ声」であり、その使命は「主の道を整えよ」と呼びかけることだからです。

   「神のことばが荒れ野でザカリアの子ヨハネに降ったのは」、今から二千年以上前のローマ皇帝ティベリウスの治世(ちせい)の十五年、「アンナスとカイアファが大祭司であったとき」です。このように当時の政治上の権力者と宗教上の権力者の名前を挙げることによって、「神のことば」が歴史上の出来事になったことを確認しています。「神のことば」は、この世の権力者の上にではなく、荒れ野で叫んでいた洗礼者ヨハネに降った(くだ)のです。ヨハネは旧約の預言者エリアの生まれ代わりと思われるようないでたちで、人々に回心を呼びかけ、ヨルダン川で悔い改めの洗礼を授けていました。福音記者マタイによると、洗礼者ヨハネは、「らくだの()(ごろも)を着、腰に皮の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物とし、・・・ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、叫びました。『(まむし)に子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ』と(マタイ3.4-8)。

   一方、福音記者ルカは、このような厳しいヨハネの姿を描くのではなく、もっぱらイザヤの言葉によって彼の使命を説明することにとどめています。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道をまっすぐにせよ・・・』」と。今日の福音の文脈では、この「主の道を整える」とは、具体的にヨハネが授けていた「悔い改めの洗礼」を受けることにほかなりませんが、わたしたちに当てはめた場合は、主をお迎えする道を準備する、つまり自分の生活の中に実際に主が来られるように、妨げになっていることをすべて取り除くということではないでしょうか。つまり、気をつけないと生活に流されてしまい、イエス不在の生活になっているのではないかという反省です。「神のことばがヨハネに降った(くだ)」ように、実は、日々の生活の只中で、主はわたしたち一人ひとりに語りかけておられるはずです。具体的には、日々聖書を開き、イエスのおことばを深く味わい、新たな力をいただくことができるということです。ですから、イエスは、種まきのたとえで、どのような心構えで日々みことばを生きるべきかを、はっきりと教えてくださいました。

   「道端(みちばた)のものとは、みことばを聞くが、信じて救われることのないように、後から悪魔が来て、その心からみことばを奪い去る人たちである。石地のものとは、みことばを喜んで受け入れるが、根がないので、しばらくは信じても、試練に遭う()と身を引いてしまう人たちのことである。そして、茨の中に落ちたのは、みことばを聞くが、途中で人生の思い煩い(おもいわずらい)や富や快楽に覆い(おお)ふさがれて、実が熟するまでに至らない人たちである。良い土地におちたのは、立派な善い心でみことばを聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである」と(ルカ8.12-15)。

   イザヤが叫んだ、「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」とは、日々の生活において、みことばを聞く妨げになる思い煩いや忙しさを取り除き、心を開き、みことばに耳を傾けることを実行することです。特に、この待降節中、各家庭で聖書を分かち合うことによって、主をお迎え準備をすることではないでしょうか

   最後に典礼聖歌111番の次のようなことばを紹介します。

「主は来られる、すぐに来られる。われらを平和に導くために。

   救いは神を畏れる人に近く 栄光はわたしたちの地に住む。

共同体ぐるみで、主を迎える為のふさわしい準備ができるように、共に祈りたいと思います。

洗礼者ヨハネ

 

待降節第1主日・C年(09.11.29

「人の子の前に立つことができるように」

待降節に当たって 

   今日(きょう)から、新しい教会暦(きょうかいれき)のC年が始まり、待降節に入りました。この待降節には、二つの意味があります。まず、メシアであるイエス・キリストの第一の来臨(らいりん)つまり、二千前の誕生を思い起こし降誕祭を準備することです。また、同時に、救いの完成の(あかつき)に栄光に包まれて再び来られるキリストを待ち望む時期であります。この二つの目的から、待降節は愛と喜びに包まれたまさに待望のときであることを実感しなければなりません。そのために、この期間中、特に典礼において朗読される聖書の箇所を手がかりに、共同体ぐるみで心の準備に励みたいと思います。 

公平と正義をもって 

   では、早速、今日の第一朗読を読み返して見ましょう。この箇所は、紀元前627年から585年にかけて南のユダ王国で活躍した預言者エレミヤの預言から採られて()います。当時、すでに北のイスラエル王国は、強国アッシリアに滅ぼされ、またユダ王国もバビロニア帝国に滅ぼされ戦勝国の首都バビロンの近郊に王を初め(おも)だった人たちが強制移住させられていた捕囚時代でした。

   このようにイスラエルの歴史にとって極めて悲惨な時に、エレミヤが、なんと救い主の到来を預言したのです。ですから、今日の箇所の14節、15節さらに16節で「その()」を三回も繰り返すことによって、「将来まさに起ろうとしていることの荘厳な宣言」を行っています。「その()」とは、歴史のひとコマとしてやって来る普通の日ではありません。それは、特別の日であることが、強調されています。なぜなら、「その()に起こる出来事が、「イスラエルの家とユダの家にわたしが語った良い言葉を立ち上がらせる」からです。つまり、神が語った「良い言葉」が、出来事になるからです。まさに救いの絶好のチャンスが訪れるのです。しかもその出来事とは、「ダビデのために義の若枝(わかえだ)生え出でさせる(はえい)」ことなのです。この「若枝」こそ、ダビデの子孫から生まれるメシア王を指します。

   神が、この「若枝を生え出でさせる」のは、「ダビデのため」ですが、すでに神は、ダビデに向って「あなたの家、あなたの王国は、あなたの行く手にとこしえに続き、あなたの王座はとこしえに固く据えられる」と約束しています(サムエル記下7.16)。ですから、この約束を果たすために、神は「義の枝」と呼ばれるメシア王を、わたしたちに与えてくださるのです。

   そして、このメシア王の使命は、「公平を、そして義をつくる」ことなのです。とにかく、神が生え出でさせた若枝がつくる公平と義なので、神の意思にそぐわない公平や義であるはずがありません。 

わたしたちの心を強めてください 

   ところで、今日の第二朗読で、パウロはテサロニケの信徒が、どのような心構えで、主の再臨(さいりん)を待ち望めばよいのかを、願い求めています。

   「そして、わたしたちの主イエスが、ご自分に属するすべの聖なる者たちと共に来られるとき、あなたがたの心を強め、わたしたちの父である神の御前(みまえ)で、聖なる、非のうちどころのない者としてくださるように」と。

   この「聖なる、非のうちどころのない者としてくださるように」とは、12節の「どうか、主があなたがたを、お互いの愛とすべての人への愛とで、豊かに満ちあふれさせてくださいますように」ということにほかなりません。なぜなら、わたしたちが聖なる者、非のうちどころのない者となるのは、イエスの新しい愛の掟を忠実に守ることだからです。そして、このメシアこそ、父なる神がわたしたちに与えてくださった限りない愛のしるしだからです。このことを、使徒ヨハネは、つぎのように語ってくれます。

   「愛することのない者は、神を知りません。神は愛だからです。神は、独り(ひと)子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。・・・神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償う<いけにえ>として、御子(おんこ)をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです」と(ヨハネの手紙一、4.8-11)。 

人の子の前に立つ

ところで、今日の福音も、将来、必ずやって来る「その日」について、黙示(もくし)文学的手法で描いております。ちなみに黙示文学とは、人間には直接知ることの出来ない神の意志や、人間の歴史やその苦難の意義などを、幻想的なイメージやシンボルで描く文学です。ですから、イエスは弟子たちに次のように言われたのです。

   「太陽と月と星に(しるし)が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る(おちい)。人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うであろう。天体が揺り動かされるからである。そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗ってくるのを、人々は見る」と。

   このようなまさに天変(てんぺん)地異(ちい)によって、人々が恐怖のどん底に突き落とされるとき、わたしたちはどうすればよいのでしょうか。イエスは、はっきりと忠告なさいます。

   「このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭をあげなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ」と。

   ここで言われている「解放」とは、たとえば使徒パウロのローマの信徒への手紙(3.24)では「キリスト・イエスにおける贖い(あがな)によってわたしたちは()とされた」となっています。つまり、キリストによる全人類の贖いは、二千年前十字架と復活によって始まりましたが、その救いの出来事が完成するのは、まさに「その()なのです。つまり、この「解放」とは、「救いの完成のとき」にほかなりません。ですから、わたしたちは、「人に子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈らなければならない」のです。このことに関して、ペトロは次のような手紙を書いてくれました。

   「万物の終わりが迫っています。だから、思慮深く振る舞い、身を慎んで(つつし)よく祈りなさい。何よりもまず、心を込めて愛しなさい。愛は多くの罪を覆う(おお)からです。不平を言わずにもてなし合いなさい。・・・語る者は、神のことばを語るにふさわしく語りなさい。奉仕する人は、神がお与えになった力に応じて奉仕しなさい」と(ペトロの手紙一、4.7-11)。

   主が来られるのをふさわしく待ち望むために、日々真剣に祈り、愛の実践に励むことによってこそ、ふさわしい準備が出来るよう共に祈りたいと思います。

主の再臨