戦後50年に当たって
千葉倫久
◆ 更新 7/29更新
戦後49年目に、国から銀杯をいただいた。私にとってこの銀杯は、国の戦争責任と人の道に関わる一つの証しである。
現在も地球上では、国家または民族による戦争と、そこから生まれる多くの悲惨な死傷者が絶えない。人類の歴史6千年の中で、平和であった年は僅かに三百年だと言われる。今それを思うとき、昭和の初期から世界史における日本帝国は、歯車が急速に狂い始めていたのではないだろうか。当時列強と言われたヨーロッパ各国、特にソ連、アメリカの覇権政策を考えれば、そのこととの相関関係が論じられるであろう。
明治・大正・昭和初期生まれの多くの者は、戦争の直接体験を持っている。赤紙一枚で召集された若人は、戦場へと駆り出されていった。残された家族は、銃後の守りと言われ、歯を食いしばって国の守りについたのである。戦時中は言論の統制、思想・信条への弾圧、もちろん食料も統制され、配給制となった。
満州事変、日支事変、第二次世界大戦となっていく。私たち家族も、両親、兄弟姉妹、祖父母の十名が、東京から満州へ、軍属として渡満した。父は、関東軍153部隊の兵器廠に勤め、私以下弟たちは、満州日本人学校へ通った。
生活は良かった。昭和19年頃から関東軍の兵隊は、南方へ速やかに送られていった。戦況は良いかのように報ぜられていたが、昭和20年の春になって悪化し、本土近くの沖縄までアメリカ軍が上陸侵攻してきていた。広島そして長崎に原爆が落とされ、東京も爆撃で焦土と化した。私たちの元住んでいた武蔵野も爆撃とともに焼けてしまったのである。
満州に住んでいた私たち日本人には、終戦が知らされていなかった。8月20日、黒煙と共に北方からソ連軍戦車と大部隊が入ってきた。そのときから暴動が起き、 中国人が暴れだし、朝鮮人がそれに加わり、ソ連軍は自動小銃で撃ちまくり、戦場は地獄と化し、私ども日本人は皆裸にされ、手を頭の前に挙げて、ソ連兵に威嚇されながら連行され、旧軍兵舎に入れられた。死は免れたが監視は厳しく、敗戦をつくづく味わったのである。神国日本も終戦となり、堂々と勝ち誇ったソ連軍は、性暴力、そして反抗すると銃殺。何人といえども狼にネズミとでもいおうか、哀れな私たちには手の出しようのない虐殺である。やっと落ち着いたと思っていると、全員集まれダワイダワイの声が響く。
兵隊と15歳以上の青年組(私16歳)は、貨車に乗れというのである。貨車に70名積み込まれ、黒河、ソ連領の対岸の駅に向かうらしい。二日目にやっぱり黒河駅に着く。付近にはシベリヤに送られる兵隊が、数百人も寒さに震えながら、対岸に渡る船待ちをしている。寒い10月の初旬、雪もちらつき、水も凍りはじめる寒気にせめられての野宿だ。
翌朝、ブラゴエスチエクスに船で渡る。背中から寒さがしみこんできて、ガタガタ震える。始めてみるソ連の町。うす黒い空の下のみすぼらしい民家、寒地のせいか活気のないソ連人は、子供と老人たちばかりなのである。そういえば大部隊で乗り込んで来た兵隊は、女性兵が多く、15、16歳の私と同じような兵隊がたくさんいた。やはり対ドイツ戦で、男女の若い青年が召集されたようである。
その日から、満州から運んでくる食料品、その他すべてが陸揚げされ、物資の運搬に私たちは労働の毎日であった。抑留当初は元気だったが、食料の支給が少なく、栄養失調と過労の寒さのために、青年になりきれない友が死んでいった。
12月となり、いよいよ寒さが厳しくなってきた。私たちは、兵隊としてではなく、員数にされて貨車に積み込まれたのであると、ソ連軍の指揮官に願い出た。青年たち三百人の嘆願はなかなか聞き入れられなかったが、持ち物の中からソ連将官の欲しい物をすべて差し出し、帰国させてもらうことになった。
再び満州国の黒河へ戻された。駅には汽車もなく、線路も取り外されていた。しかし抑留当初より望みが出てきたのか、活力がよみがえった。20名ぐらいが、一団を作り、酷寒零下30度の中を歩きだして南下を始めたのである。
幾日が過ぎたか分からないが、段々と体力の消耗が著しく、バタバタと友が倒れて死んでいった。なすすべもなく、そのまま置き去りにする。それぞれが望郷の念を抱きつつ、死んでなるものかと己を励まし、酷寒と飢餓による苦しさは、体験したものでなければ分からないものであろう。食べられるものは何でも食べた。特に大豆を拾って食べた。水には注意して熱湯を冷やし、大切に飲んだ。
しかし次の町に着いたのが北安、黒河を発って20日ぐらいだろうか。なにせ一日一日の生命を確かめるのが精いっぱいである。明日は私の番、死線は紙一重、足が前に進まなくなれば終わり、凍死である。白くなって、きれいな顔で硬くなるのだ。私は朦朧としながらも、日本人が集結している北安の日本人小学校に辿り着いた。運良く父と会うことができ、からだを休め、体調が良くなってから更に南下した。そして満州国の主都、新京(長春)へ向かい、家族を探しながら歩いた。汽車に乗るときは、中国人になり、正月ごろであったか、新京の日本人小学校に辿り着いたのである。ボロボロの麻袋に首だけ出し、婦人が子供を5.6人連れて、同じように飛び込んで来た。各教室には、奥地から逃げ込んで来た避難民で、しかもヨロヨロと疲れきった婦女子ばかり、二千数百名はいたであろうか。皆幼児を抱え、老人を連れ、女子は髪を切り、顔にはススを塗り、男装して身を守りながらようやくここに辿り着いたのであろう。
しかし、寒さと栄養不足で弱り切ったこの集団に風邪が大発生し、更に発疹チブス、ハシカなども流行して、バタバタと倒れていったのである。全く手の施しようもなく、一日に何人もが死んで行く。死体処理にも手が回らないまさに地獄絵である。ただ唖然として涙に暮れる日々が続いた。私の目の前で幼児が売られていく。親子の別れである。母親としての辛い心情が涙となって床に落ちる。何とむごいことであろうか。ようやく命をつないだ敗者に、神も仏もない過酷な仕打ちではないか。私は、このままここにいれば、先ず発疹チフスにかかるのではないかという不安に襲われた。それでも疲れたからだを引き摺り、市内での仕事をはじめた。しかし、食べるだけの生活で、中国人が使ってくれるところではどこでも働いた。
体調が良くなって、更に南下して奉天に向かう汽車に隠れて乗っている間も、捕まればまたシベリヤ送りかとか、家族の消息も気がかりであった弟妹たちが中国人に買われているのではないかと。生き地獄の極限状況においては母性愛も空しく、死ぬか、売られて生き残るか、遺棄されるかだからである。悲惨な状況の下だけに、食べる物もなく、わが子を絞め殺し、親も舌を噛み切り自殺した者も数知れない。厚生省による戦後の調査によると、開拓難民27万人の内、戦死・自決1万1千人、病没6万7千人、消息不明1万1千人、残存者1千人等、その犠牲者総数は、9万数千人に及んだという(「大東亜戦火」より転記)。
やっとのこと、奉天駅に着いても、街の中をうろつくと、すぐに捕まる。そこで日本人の住む鉄西小学校の収容所に飛び込み、難民となる。数日がかりで家族を探すが消息を掴めず。また南下して大連に向かうことにする。再び中国人に紛れ込み汽車に乗る。金などあるはずがない。どの道、いずれは死ぬのさ、と死の逃避行は続く。もう、ふらふらである。しかし海の見える大連にはどうしても辿り着かなければ祖国に帰ることはできないのである。命のある限り、日本の土を踏むのだ、弟妹たちを探さなければ、自分の責任は終わらないのである。
大連駅に着いたようだ。港口のほうに逃げ、日本人街に入る。満鉄官舎のようだ。助けてもらい、食べさせていただいた。さすが大都市だ。日本人が歩き、商売をしている人もいる。売り食いだと言っていた。しかし中年の男の日本人はあまり見かけない。聞いてみると、技師以外はやはり、北シベリアへ連れて行かれたらしい。昨年の八月までは、日本人が作った大連市、東洋一の大都市である。20万の日本人が居住していたのである。
平和には見えるが、中国人の密告がはやり、ロシヤ兵に捕まると、男は捕虜として連行されるという噂だった。私も運悪くまた捕まった。そして大連市外の黒石碓という所にある旧満鉄の療養所、ソ連軍ホスピタルへ連れてこられた。日本兵がはだしで馬飼料の草を手で刈っていた。私は、ソ連兵監視の下で果樹園で使われることになった。黒パン、スープが貰えるので、生きる見通しがついた。よし、我慢だ、逃げれば殺されるが、働きさえすれば、食料が与えられる。いつか、祖国へ帰り着くまで頑張ることにする。
ロシア語の勉強が始まった。早くソ連兵と仲良くならないことには、先が危ないのである。春からは暖かい所なので、作る果物も良く実り、リンゴ、ブドウ、桃、アンズなどであった。しかし消毒することを知らないソ連兵を理解させるのには苦労した。
ドイツ兵捕虜と親しくなる。私より二歳半上なので、弟のように助けてくれた。食べ物をよく運んできてくれた。半年も経つと、ソ連兵とも仲良くなる。彼等も17、18歳の若い兵隊であった。余り教養のない者ばかりで、その点、作業等は私に任せきりだったので、非常にやりやすかった。ただ夏からは桃、アンズ等の収穫があったのであるが、その時に本当に酷い目にあった。隣のソ連部隊の兵隊が、全部盗んでいったからである。ホスピタル(病院)へ供給するのが私の任務であったため、監視の兵隊と上官に呼び付けられ、激しく怒られた。その時は恐ろしさで、その後どのようなことになるのか気になった。事実勘気がおさまるのに暫くかかり、私たちの食事は二日も与えられなかった。ようやく現場に戻り、監視の兵隊とも非常に仲良くなって故郷の思い出を話したりして、慰め合ったのを覚えている。しかしその兵隊たちも、1年すると復員していったのである。
二年目の春も帰国することが出来なかったが、三年目には大連の街へ買い物に行くことが許されるようになった。
ある日、日本語の上手なソ連兵のカピタン(大尉)が私に好意を示して、いろいろと日本の様子を知らせてくれた。しかしその後で分かったのであるが、それも私を諜報員にするつもりだったかららしい。直感的にはそのように感じたのであるが・・・。これに乗せられると、最後には抹殺されるのが目に見えている。私の目的は祖国へ帰ることである。このシベリア、満州の酷寒と飢えを乗り越えてこそ、海の向こうの故郷へ帰ることができるのだという思いを深めた。だから頭の悪い人間に見せるのが逃げるために得策と考えた。
四年目の春が来た。果樹園の仕事が忙しくなる。大連の街の日本人も数少なになり、祖国へ帰って行った。私も何とかして帰国したいのだが、ソ連兵の監視が厳しくなってきたのであった。
引き上げ船が大連港に来ているという。ソ連兵の話しによると、最後の引き上げ船とのこと、私もいよいよ逃げる機会だ。しかし、熟考が必要である。大連在住の日本人と連絡を取りたい。
◇ 明日、引き上げ船出帆の報を受ける。脱走だ。夜は危ない。朝脱走だ。運を天に任せた。なるようにしかならない。運命ならしようがないであろう。しかし今まで5年間生きてきたことを思えば、この脱出に運命を賭けるしかないと思い、電車に乗り、1時間かかって大連港に着いた。大連港には数回、石炭を船に積むために来たことがあるので、様子はほぼ分かっていた。船はアメリカ船であった。日本人の難民が港に集まっている。乗船の検閲が始まっている。私の乗船は不可能のようだ。乗船名簿に名前がないのである。しかしこの朝に乗船しなければ、帰ることが出来なくなる。帰れずにソ連兵に捕まればまたシベリア送りか樺太送りである。万事休すか。いよいよ切ない心境になってきた。何とかチャンスが作れないものかと、難民引揚者の中を駆け歩く。一人の重病者が船に乗れずに検閲のソ連人にわめいていた。よしっと、私が身代わりみたいになれば、乗るチャンスとばかり、ソ連人とうまく話しをつけた。ソ連人は金を与えればどうにかなるのは分かっていた。そして実行してみた。ロシヤ語が役に立ったのである。ついに乗船することができた。素早く船底に潜り込む。二千人ぐらいの乗船客がいたようだ。船は出港した。やっと難門を突破した。脱出に成功したのだ。運が良かったのか、神が救ってくれたのか、冷や汗も乾いてくる思いであった。
引き上げ船は、三日目に佐世保沖に碇を下ろす。日本の山々が見える。夢に見た日本本土が目の前にある。小さなランチが迎えに来た。しかし佐世保港には着けてもらえない。旧海兵団の小島に全員が下ろされた。米軍の検査が始まり、共産党員が多数乗船していたらしく、厳しい検査が十日間も続いた。やっと開放されて、佐世保駅より汽車に乗ることができた。日本における私の落ち着き先は、山梨県の祖母の実家と、在満中に家族と取り決めていたので、その家に辿り着いた。後で聞いたのであるが、そのまま二日間眠り続けたと叔母さんが言っていた。
懐かしい本土へ辿り着いたのだから、体の力が抜けたのであろう。父母と弟妹たちは、二年前に東京へ着いていたと分かったが、祖父母は満州で倒れ、既に亡くなっていた。五年ぶりの本土に1歩を踏み下ろし、故郷の武蔵野市での父母弟妹との再会は夢のようであった。寒さと飢えに耐え、栄養失調の弱り果てた身体でよく生きて帰国してくれた嬉しさ、喜びは、今は走馬灯のように目の前を走り抜けて行く悲惨な出来事を多々経験して死線を幾度か越えてきた者にしか分からないことだと思う。お互いにご苦労様というのが精一杯で、言葉の出ないときが暫く続いた。それぞれが戦争被害者であるが、二度と戦争は起こすべきではないとつくづく思う。
ところで東京では食糧が不足し、住民の大移動が始まるのである。食糧を求めて、ある人は東北・四国・九州の農村地帯へ移住する。私たち一家も食糧の現況に見切りをつけ、北海道へ開拓者となって、四月の末、北見国紋別の奥地へ移住することになったのであるが、そこまでまた苦難の道が続くことになる。
さて、ここで一区切りをつけて筆を止めるが、戦争を知らない人達は、両親や祖父母に悲惨な戦争体験を聞いて、二度とこのような事が起きない平和国家の実現に努力していただきたいと思う。なおまたの機会にこの後の体験を書くことにしたい(戦後50年目の8月に記す)。