あるとき、「宗教アワー」というラジオ番組を聴いていましたら、一人の尼さんが幽霊について話していました。彼女の見解は実におもしろいものでした。みなさんは幽霊と聞いてその様子をどのように思い浮べるでしょう。この尼さんは、髪の毛が後ろのほうに引かれていること、前に両手を垂らしていること、足がないこと、この三つが幽霊の特徴だと話していました。そして、髪の毛が後ろに引かれているというのは、怨念のように過去のしがらみにしがみついていてそこから抜けきれないでいる状態を表していると言っています。また、両手を前に垂らしているというのは、未来に希望をもてないという状態を表し、足がないというのは、足が地に着いていない、つまり、現在にしっかりと足を踏まえて立つことができないでいる状態を意味していると説明した上で、彼女は、現代は「幽霊の時代」だと言っています。すなわち、過去の怨念だけに捕らわれていてしっかりと現在を生きることができないでいる時代のこと、だから現代は「幽霊の時代」だと言うのです。最近、バーチャルの世界、空想や妄想の擬似的な世界に酔っている人たちが多くいます。現実に身を置くことができず、直視することもできないため、擬似的な世界に入り込んではその中で楽しんで生きているという状態にある人たちです。その状態は現実からの逃避であり、自分の欲望を疑似の世界で満たすことによって現実への順応性を著しく欠落させてしまうことになり、妄想の世界と現実社会、膨らむ欲望と抑制する力の均衡が保たれず、それによって、そのことが犯罪を引き起こす原因にさえなることがあります。まさに、「幽霊の時代」とはこのようなことを指すのだろうかと考えさせられました。
別のある日、わたしに一通の手紙が届きました。それは、パレスチナとイスラエルの戦争の中で、たまたま乗り合わせていたバスが襲撃されたことで命を奪われた、バテヘン・シャハクさんという15才の少女の書いた詩集を多くの人たちに広めたいので、わたしにその活動の発起人になってほしいと依頼する内容が書かれた手紙でした。彼女の詩集を配布することによってパレスチナとイスラエルの平和を望むことが依頼してきたグループの活動の主旨で、この戦争で亡くなった両国の遺族の会も結成されているので、その遺族の会の代表にもなってほしいというのです。わたしはこの手紙を読んで賛同し、これは教化活動にもなるとの思いから、承諾することを決めました。このように確信をもってパワフルに活動している人たちというのは「幽霊の時代」に生きる人たちとは確かに違う、それは現実の地にしっかりと足を着けて生きている人たちの姿であると、わたしはそのように受けとめることができたのです。
「カトリック生活」という月刊誌がありますが、その1月号は、「平和を創る人々」の特集号になっていて、その中に、ベツレヘムの生誕教会の司祭、イブラヒム・ファルタス神父へのインタビュー記事が載っていました。イブラヒム神父はエジプト人で、聖地最古の学校の校長もしています。そこでは、パレスチナ人とイスラエル人の子どもたちを合宿させたり、また、この子どもたちでつくるチームとイタリアの子どもたちのチームとでサッカーの試合をさせたりと面白いプロジェクトを作り出しています。これは、子どものときから人種や宗教の区別も差別ももたず、異民族としての壁をつくらない人間として育ってほしいという願いを込めた、イブラヒム神父の教育方針の実践として行われたことのひとつのようです。そして、そのプロジェクトを実行するにあたっては、姉妹校関係を結んだ、パレスチナ人の学校とイスラエル人の学校の生徒に、平和の価値と共存への道、人間の尊厳についてまとめたものを配り、何度も何度も子どもたちと話し合い、十分なる精神的下準備をした上に行われたことであったと、イブラヒム神父は話しています。
先に話をしました、戦争の犠牲になった少女シャハクさんの詩集を配ってパレスチナとイスラエルの平和を望もうとしているグループの人たちと、今話しました、子どもたちに人と人との間に壁をつくらないことを教えることで平和の基盤を築こうとしているイブラヒム神父の二つの話は、パレスチナの平和は絶望的だと思っていたこのわたしを開眼させるものでした。平和への望みが絶たれることなど決してないのです。これら小さな善の芽が、いつか平和という形で実現するのだということをまざまざと見せつけられた思いです。ここで思い出されるのは、ヨハネ二十三世教皇のことばです。これまでにも話していることですが、今から四十年前のことです。その時代の世界は東西が冷戦の状態にありました。ソ連や中国と自由主義国家との間はいつ戦争が起きても不思議ではない状況でした。ほとんどの人々が平和の再来は絶望的と考えていたそのとき、年老いたヨハネ二十三世は、“小さな善を積み重ねている人たちがいる、そして、この小さな善を積み重ねている人たちを通して新しい時代が訪れる”というメッセージを投げ続けていました。実際、この四十年の間に新しい時代が訪れたことは誰もが知っていることです。
最初の幽霊の話に戻りますが、バーチャルの世界にしか生きることができないでいる人たちからは決して平和は生まれません。平和を創り上げていくためにはしっかりと大地に根を下ろすように足を着け、地道であってもじっくりと草の根的な活動を続けていくことがとても大切です。小さな善を積み重ねていくことはわたしたち一人ひとりの誰もができることです。その意味から、このような活動を阻もうとする傍観者であったり、評論家であったりするような人たちが善意ある行動に心ない横槍を入れると、善意ある人を失意させたり、その力を喪失させたりと、小さな善の芽を摘み取ってしまうことになるのです。これは『罪』であるとわたしは考えます。幽霊人間というのは怨念に縛られるように生きていて、コツコツと創り上げることや築き上げていくことに喜びをもつことができません。いつも過去のしがらみや恨みばかりに生き、見えない、わからない将来なんてどうでもいいと言わんばかりに現実から遠ざかるような生き方をします。
きょうは、クリスマスです。おさな子イエスさまの誕生をお祝いしています。このおさな子イエスさまは、わたしたちが生きているこの現実の世界に神さまが介入したという確かなしるしとなっています。小さな善を積み上げて、よりよき世界を建設すべく、イエスさまはこの世にお生まれになりました。聖書では、イエスさまを「インマヌエルの神」と呼んでいます。わたしたちと「共にいる神」、「一緒に住む神」です。わたしたちと一緒に小さな善をコツコツと積み上げていくために、わたしたちに向かってイエスさまはその御手を差し伸べています。まるで無力そのものかのように見えるおさな子を通して世界に平和が訪れるのです。一緒に考えてみましょう。このミサが終わったとき、一体、わたしに何ができるのだろうかということを。たった一つだけかもしれないけれど、きっとわたしにできるはずの善とはなんなのかということを。たとえ小さなことであっても、小さな力であっても、「善」をわたしたちみんな一人ひとりがコツコツと、しかも確実に、それも強い信念をもって積み上げていくことができたなら、必ずこの世界に平和は実現します。旧約や新約の聖書の時代、とてつもなく大きなお城や大聖堂などの建物を築くために働いたのは底辺に生きる人々で、それこそコツコツとした一人ひとりの労働力によって建物はそびえ立ちました。体にくい込むほどの大きな石を人の手、人の肩で運び、途方もない年月を費やして建物は完成されています。そのとき、血を流し、倒れながらも石を一つひとつ積みあげていった人たちのほとんどは、その完成を見ることなく死んでいっています。今、わたしたちは体にくい込むような重い石を積み上げるのではなく、それぞれが与えられた力でできる善を積み上げるのです。ですから、当然力持ちじゃなくてもいいし、年をとっていても、病に伏せていたとしても、もちろん、お金がなくたってできるでしょう。人生経験の浅い若者も、それだからこそ、ながく歩んできた大人たちよりも慎重になり過ぎることなく、思い切っていろんな発想をもって行動できると思います。それを大人たちはワクワクして見守るくらいでなければいけません。それが、なんの成果も上げることができないように見えた場合でも、冷たい視線を向けるのではなく、励ますぐらいの度量が必要です。それが「育てる」ということです。あとに続く人を育てることは大切な仕事で、その仕事も大きな平和への善です。やったことの結果はそのときのためだけではなく、あとになってそれがどのように表れるか、功を奏するのか、人間の目にわからないことが多くあります。言いたいことは、誰にでもその人にできる何かがあるということです。権力者に動かされてそうするのではなく、わたしたちの生きるこの世界に平和をもたらすためです。神さまはすべての人に必ず何かを託しています。人はみんな必要として造られています。だから、大きな財源力や為政者の力によらなくても、何の力ももたないようなこの手で、コツコツと積み上げられる善によって平和は築かれるのです。それが完成されるとき、もうそこにわたしたちはいないかもしれません。それを見ることができないかもしれません。でも、今生きるわたしたちが動かなければ、新しく築きあげることができないばかりか、今まで積み上げてくれた人々の善を次の人たちに繋ぐこともできなくなります。わたしたち一人ひとりの起こす「善」は、神さまの力強くも熱き思いが込められたイエスさまの誕生によって始められ、そしていつでもしっかりと支えられています。
みなさん、イエスさまの誕生、このクリスマスの意義を深く心にとめ、是非、神さまの平和事業に参画し、自分を奮い立たせて、善なる行動を起こしてほしいと思います。
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きょうは、きょうの朗読箇所になっている、ヨハネ福音書(1.1-18)のわかりにくい部分をみなさんと一緒に読みながらクリスマスの意義を考えてみようと思います。
まず、次のように言われています。「初めに『ことば』があった」、ことばは人を変えていく力があります。ヨハネ福音書は、ことばの重みを最初に告げています。わたしはこれまで長く教育者として働いてきました。何度も同じことばをくり返すということで、学生たちが理解を深めていくことをその経験上からも知っています。同じことばを何度もくり返しながら自分に言い聞かせていき、それを通して自分が変えられていくということが確かにあります。「初めに言があった」と始まり、さらに、「言は神と共にあった。言は神であった」と続いています。わたしたち人間は、自分の思いをことばによって告げます。“わたしはこんなことをやってみたい”とか、“わたしは君が好きだ”など、ことばをもって知らせます。神さまの思いもことばによってあらわされます。神さまの思いをことばによって表現されたもの、それこそ、わたしたちの世界に生まれたイエスさまなのです。イエスさまは父なる神さまの思いそのものなのです。神さまの熱い思いがイエスさまの中に一体となってあります。従って、わたしたちはイエスさまを通して神さまの思いを知ることができます。いいえ、イエスさまを通さなければ神さまの思いを知ることも行うこともできないと言えます。それは、第二朗読のヘブライ書の一節から二節で語られていることばでもわかります。「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。」すなわち、イエスさまのことばをしっかりと理解すること、そして、その中に生きることを通してはじめて神さまの熱い思いがわかるということです。わたしたちが、おさな子イエスさまが差し伸べているその手に、神さまの熱い思いを見ることができるかできないかは「ことば」を理解するかしないかにかかっています。
さらに、次のように言われています。「万物はことばによって成った」。この一節で神さまの思いとはどのようなことかが見えてきます。「人と世界の創造」、人と世界が造られていくことが神さまの思いなのです。イエスさまということばを通して、神さまは、“おまえたちを造り上げたことがわたしの成したことの一番のできごとだ”と告げているのです。神さまが何より大切に思っていることは、わたしたちが今ここにこうして生きていることなのです。だから、“おまえたちのためにわたしの愛するひとり子を遣わすのだ。それは、おまえたちはわたしの大切な宝であり、わたしが、わたしの子どもであるおまえたちに一番伝えたい思い、尚かつ受けとめてほしい思いがおまえたちの中にあり、それを知ってほしいからだ”と告げています。これです。わたしたちが生きているこのことが父なる神さまの最高の喜びということなのです。そして、生きていることに感謝することがわたしたちの宗教の第一歩なのです。わたしたち一人ひとり、なんとみじめでつまらない小さな者なのだろうかと思うことがしばしばあります。でも、そんなわたしに神さまは目をとめてくださり、熱い思いを込めてわたしたちを造ってくださったのです。わたしたち一人ひとりは、神さまから思いを込められて造られた、いいえ、こうして大人になった今でもずっと、わたしの子ども、大切な宝という思いを込められ続けています。なんということでしょう。なんと素晴らしいことなのでしょう。
次に、9節で「世に来てすべての人を照らす」とあります。わたしたち人間はこれほど神さまに思われているのに、忘恩の徒となっています。感謝の心を失ってしまい、神に造られたということを忘れてしまっています。自分は偉いと思ってしまうのです。それが『罪』です。成長した子どもたちは、まるで、一人で育ったかのように横柄になっていきます。しかし、そうではないわけです。産み育ててくれた親がいるということです。そういうことを大人は子どもに教えなければいけません。自分中心の生き方をしているときは、人を蹴落としていくようにもなります。周囲を争いに巻き込みます。それが、殺人や戦争を引き起こすということがあります。これほど、神さまの熱い思いや大きな愛を受けたわたしたちがいつしか人には負けたくない、人の上に立ちたい、人からの称賛を浴びたいという気持ち、独占欲やそこから生まれる嫉妬心など、他を認めないという『罪』に落ち込んでいきます。まさに、泥沼の中にいる状態です。わたしたちの生きている世界は泥沼です。わたしたちの心の中も泥まみれです。それは、神さまから造られたことや思われていることを忘れてしまい、自分一人で生まれてそして成長したという傲岸さがあるからです。それでも人間は、この泥沼の中から抜け出したいといつも救いを求めています。ホセア書に、嵐の中で、地震の中で、人は自分の罪と自らを汚辱したその悲しみのゆえに岩間に身を隠し、“神さま、わたしを殺して下さい”と叫んでも、「しるし」をつけられているこの人たちに死は近づけず、どんなに死なせてくれと叫んでも死ぬことはできないということが語られています。これが『罪』であり、『罰』であると言います。わたしたちは洗礼によって「しるし」を受けました。この「しるし」とは、神さまにすがって神さまを頼みとし、わたしは神さまによって造られたのだということを何よりも喜びとすることです。だから、受けた「しるし」を忘れ、自分一人で生きているかのようにしているとき、死にたいという状況になってそれを願っても、それはかなえられないという『罰』があります。
第二朗読のヘブライ書に、「世に来る『ことば』がある」とあります。神さまはこの世に御子を遣わされました。『ことば』とは、「インマヌエル」、共にいてくださる、人となられた神さまです。神さまは、人を泥沼から引き上げるために最愛の御ひとり子をその泥沼の中に送り込んでくださいます。この上ない方法です。最高の愛ある手段です。上から手を伸ばし、そこからわたしたちを引っぱり上げ、そのままわたしたちを天国に入れるというやり方ではありません。わたしたちがいるこの泥沼の中に神さまが入ってきてくださって、わたしたち人間と同じ泥まみれになってくださるのです。そして、そこから一緒になって父なる神さまに向かって手をあげ、救いを求めてくださるのです。それが「インマヌエル」、共にいてくださる神さまなのです。上からわたしたちを引き上げればとても簡単なはずです。でも、神さまはそうなさらないのです。神さま自らが泥沼の中に入ってきてくださいます。
わたしたちができること、それは「ことばを受け入れ、その名を信じること」、と続いて読まれています。泥の中にありながらも、わたしたちはイエスさまとその教えを信じることによって救われるのです。一緒に泥の中にいるイエスさま、その彼のそばにいて彼の中に入り、彼のことばを聞いてそれを信じたら、そこから救いが始まるのです。上からスッと引き上げられて救われるのではなく、わたしたちが自分の人生をイエスさまと共に生きることで救いが始まると言っています。イエスさまとその教えを信じることが救いへの一途で、「神の子となる資格を与えられた、神によって生まれた人」となると言っています。法華経の経文に、「一切衆生ことごとく仏性を有す」という教えがあります。これは、ありとあらゆる生きとし生けるすべてのものの中に仏のがあるのだということを言っているのですが、すべてのものの中に神が宿っているのだと捉えることができます。毎日の生活の中で、どこに神さまのことばが宿っているかを思い巡らし、この「仏性を有す」ということばのもつ意味も理解してみたらいいでしょう。
さて、ここで「わたしの生きる泥沼」とはなんなのか、わたしの愚かな罪とはなんなのかを考えてみてください。わたしは何も罪を犯していない。誰にも悪いことをしてはいないと、今心の中でつぶやいた人がいたかもしれません。そんなことはないのです。聖アウグスティヌスは、その罪と汚濁の中で神のはたらきがあると言っています。ラテン語で、「オー・フェリクス・クルパ」、なんとしあわせな罪よと表現しています。また、アダムが罪を犯したからこそ、神さまの最大の宝であるイエスさまがわたしたちの間にお生まれになったのです。なんとすばらしいことなのでしょう。最近、福島にある短大の先生をしておられる方がお書きになった、「子育ては愛された自分探し」という本を読んで、わたしは自分自身を振り返ることができました。人を、その上辺だけしか見ることができないと憎んだり攻撃したりしてしまう。その人の生い立ちやその人自身をしっかりと見つめることができたなら、どれほど自分が愛されていたかを知ることができる。そしてそのとき、人に対しての深い憐れみが生まれてくると作者は書いています。よく人生を見ているなという印象をもち、そのことをまさに実感として受けとめました。その意味で、わたしも自分の罪深さを痛烈に感じとれたのです。しっかりと自分の生きる泥沼を見渡し、そこに一緒にいてわたしを見つめていてくださるイエスさまに気づくことができなければいけません。とかく自分一人で考え、自分一人でその泥沼の中に落ち込んでいってしまうというこのことが、『罪』の根源であると理解する必要があります。
おさな子イエスさまはこんなわたしたちに向かって御手を差し伸べています。そのイエスさまの向こうには、神さまの愛と憐れみとやさしさが見えています。クリスマスにあたり、イエスさまを見つめ、その向こうにある神さまのやさしさ、ひいては自分の罪深さに気づきたいと思います。単なる儀式や浮かれた行事として、形だけのクリスマスにしてしまうことのないように自分を凝視し、イエスさまの向こうにいらっしゃる神さまの視線を確かに感じることができるお祝いになることを望みながら、ミサを続けてまいりましょう。
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