死者の日 11月2日 (祭日でも祝日でもないが、年間の主日に優先する。)
 
注)カトリック教会で行われる通夜の式は「親しい人との別れは、だれにとっても悲しいことです」という招きの言葉で始まりますが、特に身近な人の死を前にして、死という現実を目の当たりにするのはいつの世も同じです。しかしキリストを信じる者にとって死が人生の終わりに思えたとしても、新たな人生の始まりであり、目的である天国への旅立ちであることを信じているからこそ、人の死を素直に見つめ、悲しみの中にも安らぎを覚えるのです。通夜での祈りはそのことを表明します、「キリストは『わたしは復活であり、いのちである。わたしを信じる者はたとえ死んでも生きる』と教えられました。別離の悲しみのうちにもわたしたちは、このキリストのことばに慰めと希望を見いだします」(カトリック儀式書「葬儀」)。
このようにキリスト教においては、死いうものが神のみもとに帰り、永遠のいのちにあずかるということですから、亡くなった人の魂が永遠に安らかに憩うように祈りをささげることをかねてから教えてきました。またわたしたちは生者同士の関係だけでなく、生者と死者との連帯関係にあります。故人が天国に入るためにはその霊魂があらゆる罪の汚れから清められ、神のみもとで永遠の幸福にあずかることができるように祈ることによって死者を助けるだけでなく、死者がわたしたちのために執り成しをしてくださることを信じるがゆえに、教会はキリスト教の初期時代から、死者の記念を深い敬愛の心をもって尊び、死者のための祈願をもささげてきました。
教会の典礼暦で11月2日は「死者の日」とし、亡くなったすべてのキリスト者を記念します。キリスト者の間では2世紀頃から死者のための祈りを唱える習慣が生まれ、次第にミサが伴うようになりました。亡くなったすべてのキリスト者を1年の特定の日に記念することは、7世紀初めにセビーリャの司教イシドルスが、聖霊降臨の祝日の翌日に死者を記念するミサを行なうように指示したことに始るとされています。さらに、諸聖人の祭日(11月1日)の翌日にすべての死者を記念する習慣は、998年にクリュニー修道院院長のオディロンによって始められ、その修道院の修道士たちの影響によって11世紀には広く行なわれるようになりました。ローマ教会には1311年の暦に始めて記されていますが、それ以前からローマでも死者の日の記念日が行われていたと思われます。この記念日は西欧諸国に広まり、15世紀には、スペインのドミニコ修道会で盛んに行なわれ、司祭がこの日に3回のミサをささげるようになったのもこの頃だといわれています。18世紀になる頃には、3回のミサの習慣が世界各地に広まり、1915年に教皇ベネディクト15世がこれをすべての司祭に許可することによって、全教会に広めました。現在はこのような規定はありません。 11月が「死者の月」として定着してきたのがいつからなのか定かではありませんが、死者への思いがミサをはじめとする様々な祈りの形で表され、それが広がりを見せ、伝統・習慣となって次第に死者の月になったと考えられます。おそらく、諸聖人の祭日(11月1日)の翌日にすべての死者を記念する習慣は、998年にクリュニー修道院のオディロンによって始められ、クリュニーの修道士たちの影響によって11世紀には広く行われるようになったとおもわれます。ローマ教会には1311年の暦に初めて記されていますが、それ以前からローマでも死者の日の記念が行われていたと思われます。
『毎日の読書』より
わたしたちは生者と死者を問わず万人との連帯関係にあり、その連帯関係は聖徒の交わりを土台としています。「聖徒の交わり」とは、「聖なるものの分かち合い」と「聖なる人々の交わり」という意味を持ち、聖徒たちの交わりが、まさに教会なのです。すべての罪はこの交わりを損なうものです。
教会はキリスト教の初期の時代から、死者の記念を深い敬愛の心をもって尊び、死者のための祈願をもささげてきました。死者のためのわたしたちの祈りは、死者を助けるだけでなく、死者がわたしたちのために執り成すのを有効にすることができるのです。
『カトリック教会のカテキズム』(946、953、958)を参照(中央協議会HP「死者の人は?より)
 
諸聖人を昨日祝った私たちは、今日神に仕えて亡くなったすべての人を思い起こし、死者のための祈りを共にします。地上の「生」を超えたいのちに、私たちの心を開かせてくれるのが今日の典礼です。
死者のための祈りが典礼の中に現れたのは、3世紀のはじめ、カルタゴにおいてです。しかし、死者のために祈る習慣は、初期キリスト教の時代からあり、4世紀には東方教会に、8世紀には西方教会において、ミサの奉献文に取り入れられるようになりました。現在の「死者の日」の起源は、998年にフランスのベネディクト会クリュニー修道院において、11月2日を帰天したすべての信徒のための記念日と定めたことによると言われていますます。そして、この習慣は、だんだんと教会全体に広まっていきました。
教会は、死者のために祈ることにより、生きている人だけでなく、亡くなった人をも含む、交わりの共同体であるという考えを深めてきました。この世を去った人々のために祈りながら、私たちは、死者の中から「復活された御子キリストに従う私たちの信仰を強め、死者の復活を待つ私たちの希望を不動のものとしてください」と祈ります。今日の典礼をとおして、教会のこの心を味わっていきましょう。
亡くなった人のために祈る日の中心は、いつもと同じキリストの死と復活の秘義です。
日本の教会では、日本社会にキリスト教本来の希望にみちた死生観と、祖先崇拝に福音の息吹をという心遣いから、『祖先と死者についてのカトリックの手引き』が出されています。この本は、葬儀やお墓のことで戸惑いや疑問を抱いたことのある方に答えてくれます。
今日の第1朗読では、知恵の書が読まれます。知恵の書 1~5章は、知恵と人の行く末について論じます。亡くなった人たちはどこにいるのか、だれがこれに答えるのでしょうか。
すべての人が死ぬことについて、知恵の書の著者はまず、悪人の口を借りて、神を認めない人の考えを描写します。それに対して、2章21節から反論を開始します。知恵の書の著者が、特にここで強調するのは、義人の信仰とそれに対する報いです。
「主により頼む人は真理を悟り、信じる人は主の愛のうちに主と共に生きる」と、知恵の書は告げています。
だれにでも訪れる死、この現実を自らのうちに迎え入れることについて思い巡らす日としてはいかがですか。
死者のためのミサには、いろいろの聖書のテキストを選べるようになっています。今日の第2朗読のためには、ローマの信徒の手紙が選ばれています。この手紙は、聖パウロの手紙の中で一番長いもので、16章からなっています。この手紙はまた、もっともよく聖パウロの神学思想が展開されているものです。1章 16~17に、この手紙のテーマが述べられていると言えます。この手紙は教会史において、大切な役割を担ったもので、西方教会の最大の教父アウグスチヌス、日本でも彼の著は親しまれていますが、その彼を回心へと導きました。
この手紙が組織的に書かれているとはいうものの、やはり書かれたときの具体的歴史事情があります。その辺も学びながら、このすばらしい書を読まれることをお勧めします。 今日読まれる個所は、この手紙の第2部「信仰による義(5~8章)」の締めくくりにもあたります。今日の朗読は、「神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか」とはじまります。「~であるならば」との条件法で書かれていますが、これは事実を強調する言い方で用いられています。つまり、神が実際に私たちに味方してくださっているということになります。
この味方してくださっている事実は、私たちの益のためであり、また、その方は身代わりとして「御子をさえ惜しまず死に渡された方」なのです。ですから、「御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」と聖パウロは言います。1句1句が力強く響いてきます。この今日の朗読の個所を、私たちの信仰宣言として、何度も何度も祈ってみてはいかがでしょうか。繰り返し宣言していくうちに、だんだんと内なる心に染みこんでくるのを感じませんか。実に、「わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」
今日の福音では、ヨハネによる福音書が読まれます。ヨハネの6章は、聖体についての章とも呼ばれます。ここで、イエスはご自分はだれか、ご自分の使命はなにかを「いのちのパン」のイメージで語り、明かしてくださっていますが、その中の1部が読まれます。
今日の福音は37節から読まれますが、イエスの言葉そのものは、35節にはじまっています。「自分は誰であるか」について35節に総括的に述べられたことを、36~40節では、それを展開しています。
イエスの語られることは明確です。イエスが「天から降って来た」のは、ご自分の意志によるものではなく、御父の意志を行うためです。イエスを見て信じる人はすべて救われます。私たちが生きるようにと、心砕く神の働きは、イエスを通してあらわにされます。
 
                  王であるキリスト 年間の最終主日。祭日。
 
「年間」は「王であるキリストの主日」とそれに続く土曜日までの一週間で終了し、再び待降節から新しい典礼暦上の一年が始まる。
典礼暦年最後の主日です。この日、教会は「王であるキリスト」を祝います。この祭日は、1925年に、教皇ピオ11世が回勅をもって、「王であるキリスト」の祝日が定めたものです。時代はまさに、ドイツではヒットラー、イタリアではムッソリーニ、ソビエトではスターリンと独裁体制を固めているところでした。
教会は、終末主日に世の終わりについて考察してきました。今日、この祭日を祝って、世の終わりが滅びの時ではなく、神の国の完成の時であること、キリストが宇宙の支配者であること、この王であるキリストが再び来てくださる喜びの時であることを祝います。こうして典礼サイクルを終え、次週から新しい典礼暦年がはじまります。
「王」とは、王政に生きたことのない私たちには分かりにくいイメージなのかもしれませんが、王はもともと「メシア」つまり、神に選ばれて油を注がれ、王とされたという意味です。新約聖書では、これを忠実に訳して「キリスト」と呼びます。私たちに親しい「キリスト」という名は、イエスこそ真の意味で王であるということなのです。
キリストが再臨される時とは、この世の支配、力……から解放される時です。このような神の訪れの時がすでにはじまっている、とキリストは言葉と行いで告げ知らせました。キリストご自身の全生涯は、神のみ旨とその支配の見えるしるしでもありました。
王であるキリストをたたえ、すべての人の救い主であるイエス・キリストを待ち望む待降節へとつなげていくことにより、教会の典礼が年間をしめくくるのは、実にふさわしいあり方と言えます。
聖書的な言葉、思想は、「聖書思想辞典」のようなもので調べていくと、個人のもっているイメージを広げてくれ、聖書を読むうえにも大きな助けとなります。
A年
イエスはキリスト(油を注がれた王)である。王とは見えぬ「王」。今週の福音は「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く」で始まつており、再臨のイエスが行う裁きについて語つています。彼はすべての民を集め、彼らを右と左に分け、それぞれに裁きを告知しますが、そのときのイエスは「そこで、王は右側にいる人たちに言う。それから、王は左側にいる人たちに言う」というように、「王」と表現されています。
地上のイエスがエルサレムに入るとき、群衆は「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように」と神を賛美し、イエスを迎え入れています(マタ22:9、マコ11:9)。しかも、ルカとヨハネは「主の名によって来られる方に」の後に「王に」を加えています。このことが端的に示しているように、イエスは王として見なされています。史実はどうであれ、イエスをメシア(油を注がれた王=キリスト)と信じる信仰は、地上に生きたイエスをすでに王と見ています。
しかし、もう一方で、兵士たちがイエスを「ユダヤ人の王、万歳」と呼んだのはなぶりものにするためであり(マタ27:29、マコ15:18)、十字架上の罪状書きに「ユダヤ人の王」と書いたのはからかうためです(マコ15:26など)。人間の常識に従えば、王は権威と力に満ちた神的な存在であり、十字架に苦しむ人物を王と呼ぶことなど思いもよらないことだからです。
また、ルカによると、イエスと一緒に十字架につけられた二人の犯罪人のうちの一人は「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」とののしったのに対して、他の一人は彼をたしなめた上で、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わた
しを思い出してください」と願っています(ルカ23:39‐42)。
このように、地上のイエスに対する人々の見方は正反対に分かれています。パウロもこの分裂を知っています。彼によれば、十字架につけられたイエスは「ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、
召された者には、神の力、神の知恵」ですから、自然的な人間の日で見れば「つまずかせるもの、愚かなもの」にすぎないけれども、「召された者」、つまり神の関与を受けた者には「神の力、神の知恵」なのです。
地上のイエスがすでに王であると知るためには、我々が人間としての常識を捨て、神の働きかけを受け入れる他に道がありません。第ニイザヤは神の思いと人の思いとの間には天と地ほどの差があると説いていますが(イザ55:8-9)、この勧めに従えなければ、地上のイエスを王と見ることはできないと言うべきです。
人間の知恵の延長線上に神の知恵があるのではありません。もしそうであれば、常識を磨き上げることによっていつかは神の思いに到達できるはずです。神に聞くことが我々の唯一の道なのです。
三つの朗読からの呼びかけ
第一朗読 エゼキエル書34章11-12、15-17節
エゼキエルは捕囚地バビロンで活動した預言者。エゼキエル書は、紀元前五八七年のエルサレム陥落を描く33章を境目として、それ以前では裁きを語り、それ以降は救いを告
げる。34章は牧者と群れをたとえに用いて捕囚からの解放を歌う。16節までは牧者(=民の指導者)への言葉であり、17節からは神に救出された群れ(=民)への言葉。
散らされた群れを救い出し
エゼキエル書34章2-10節では、「イスラエルの牧者(王をはじめとする指導者階級とへの批判と裁きの言葉が語られますが、今週の朗読の11節に入ると、「見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする」と述べて、王に代わつて、民を救って世話をしようとする神の不退転の決意が表されています。12節以下では「牧者が…その群れを探すように、わたしは自分の羊を探す」と述べた後に、神の一連の行動が語られ、神による救いの最終日標が「養う」ことにあることが明確にされます。神が民を王に託したのは、民を養わせるためでしたが、彼らは「群れを養おうとは」せず、「かえつて力ずくで、苛酷に群れを支配」しています。そこで、神は王から民を取り戻し、手ずから民を養うと確言します。
17節以下の言葉が語られる相手は、「良い牧草地」で神によって養われることになったこの羊の群れですが、「わたしは羊と羊、雄羊と雄山羊との間を裁く」と述べているように、群れの中の強者に対する警告の言葉になっています。それは、強い者がわれ先に牧草
を食べ荒し、弱い者を追い出しているからです。そこで主なる神は「わたし自身が、肥えた羊とやせた羊の間を裁く」と宣言します。良い牧草地で養われている群れがその仲間に親切を尽くすのは、神によって導き出されたことを知っているからです。それを忘れるな
ら、自己中心的な態度が頭をもたげ、弱い者をはじき出すことになります。
 
第二朗読 コリントの信徒への手紙一(15章即126、28節)
コリント教会には、自分たちは天的な存在に近く、すでに完成した者であり、終末に約束されている死者の復活は無意味であって、それを待つ必要はないと自負する人々がい
た。つ」のような熱狂主義者に対して、パウロは「死者の復活」を否定する虚しさを説き(121‐9節)、今週の朗読では「キリストの復活」を肯定することから論じ始める。
キリストは神に国を引き渡されます
パウロがキリストを「初穂」と呼ぶのは、復活すべき者の中で「最初の者」だからです。しかし、ここで「復活した者の初穂」とは言わず、「眠りについた人たちの初穂」と述べているのは、今の段階ではキリストだけが唯一死から復活した方であるからです。さらに、パウロは「罪はアダムを通してこの世に入った」というユダヤ人にも周知の見方を利用し、「死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来る」と述べます。パウロにとって、復活のいのちは未来のものとして現在に影響を与えているのであっ
て、すでに現実となったのではありません。熱狂主義者はすでに完成しておりこれ以上の歩みは不必要だと見るのに対して、パウロは「キリストの再臨」の時に、キリストに属している人たちが復活すると説きます(23節)。
キリストの支配はキリストが神の右の座に着いた時から始まっていますが、「世の終わり」にはキリストがすべての敵を減ぼして、父である神に国を引き渡します。キリストが滅ぼす最後の敵は「死」です。パウロはここでも、熱狂主義者の思い違いを意識しています。完成への道はすでに始まっていますが、それはまだ終わつてはいません。完成への途上をキリスト者は生きているのです。
世の終わりには神だけがすべてを支配するものとなります。キリストが支配する今は、キリスト者が約束された復活の希望を持って生きる時なのです。
今週の福音 マタイによる福音書25章31-46節
マタイ福音書24章36節125章46節は、その最初と最後で人の子の到来を述べ、たとえを用いて終末へと生きる教会の取るべき姿勢を説く。人の子の到来が遅いと考えて油断せず(心実な僕と悪い僕)、それに備えて準備し(十人のおとめ)、信頼されて預けられた恵みを活用する(タラント)こつことが教会に求められている。そして今週の朗読では、最後に人の子が来て行う裁きが述べられる。
栄光に輝いて来るとき
王は自分の右側にいる者に「お前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい」と告げ、左側にいる者には「悪魔のために用意してある永遠の火に入れ」と言い渡します。「わたしが飢え、渇き、旅をし、裸で、病気で、牢につながれて」いたときに「お前たち」がとった態度も、前者では肯定形で、後者では否定形で表されています。「この最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたこと」という王の言葉は、神ご自身が「もつとも小さい者」となられたことを示しています。「小さい者」に対する行為が運命を左右してしまうのです。
世の初めから用意されていた国を「受け継ぐ」ことになる人たちは、飢えたり、渇いたりした人が「人の子」であるとは知らずに行動しています。彼らがそうしたのは、自分に対する最後の裁きを視野に入れていたからではありません。苦しんでいる者を目にしたとき、手を出さずにはいられない気持ちになったからです。憐れみの心が彼らを行動へと駆り立てています。
永遠の命を獲得するために助けたのだとしたら、それは相手のためではなく、自分のための行動です。それは隣人のいない隣人愛、神がいない神への愛、すなわち偽善となってしまいます。旧約聖書において「小さな者」に対する配慮は、エジプトの地で奴隷であっ
た自分たちを導き出した神の救いの業に由来するとされています(申24:17以降参照)。苦しむ人への助けは、自分の救いを当てにした投資なのではなく、すでに神によって与えられた救いが要求する行為なのです。
44節は食べさせ、飲ませ、着せるといった善い行為をまとめて「お世話をする〈ディアーコネオー)」と表現しています。この語は、奴隷と主人という身分関係に基づく奉仕を表すドゥーレウオー〈仕える〉とは違って、人格的な相互関係に基づく奉仕を表します。 この語は「多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」人の子(20:28)にも使われています。栄光の座に座る「人の子」は、自らを無にして私たちに「仕える」者となった王です。そのキリストとの交わりが、私たちを「仕える」者へと変える力となります。教会は終末に向かって歩むキリストの体です。私たちはイエスの十字架を通して、神から先に私たちに向けられた限りない憐れみを知ることができました。心の奥深くにまで染み込んだその憐れみが、私たちを「小さな者」、隣人への奉仕へと向かわせます。(主日の聖書解説<A年>雨宮 慧 著 教友社より)
B年
第1朗読では、ダニエル書7:13-14が読まれます。ダニエル書は、1、2部からなっています。第1部(1~6章)は、物語形式で書かれ、ダニエルは3人称で記されています。第2部(7~13章)は、預言の部分で、ダニエルは、1人称で記されています。
この日読まれるのは、この第2部の導入部で、人の子についての幻です。
『「人の子」のような者が…』と書かれていますが、「人の子」がだれをいったい指すのかについては、いろいろの説があります。福音書では、イエスがご自分を指すときにこの呼称を用いています。この者に「権威、威光、王権」が授けられ、すべての国の人々は彼に仕え、「彼の支配はとこしえに続く」という預言は、捕囚の民イスラエルにとっては、希望の言葉でした。
ダニエル書では、また、新約聖書に与えた影響は大なるものでした。今日、この書を読む私たちにとっても、今日の預言は力強く響いてくる言葉です。
今日の第2朗読では、新約聖書の最後、「ヨハネの黙示録」の冒頭の部分が読まれます。「証人、誠実な方、死者の中から最初に復活した方、地上の王たちの支配者」とイエス・キリストの王である姿を表現します。この意味でイエス・キリストは王なのです。ダニエル書に描かれている預言は、イエス・キリストにおいて実現したのです。また、イエス・キリストは、「御自分の血によって罪から解放してくださった方」であり、ご自分の祭司職に私たちを与らせてくださる事においても王なのです。この方に「栄光と力が世々限りなくありますように。アーメン」と今日の朗読は終わります。
この日、B年においては、ヨハネの福音を読んでいきます。イエスがローマ総督ピラトの前で、ご自分が王であることを宣言する個所です。
ヨハネ福音書は、イエスが人々の王とであることを一貫して伝えています。イエスのご受難の記事に関しても同様です。イエスが王になるのは、神の救いのご計画の完成を意味しています。J-Bibleで検索してみると、イエスについて「王」と言われている箇所は、16ヒットします。ヨハネは最初から、「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」と言っています。
イエスは、王としてエルサレムに入城し、ピラトの前で王位を宣言なさいます。この記事が今日読まれるところです。ピラトのイエスに対する問い、「ユダヤ人の王なのか」に対し、イエスは「わたしの国はこの世に属していない」と言われます。続いて「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」と宣言されます。
「わたしの国はこの世に属していない」と2度繰り返して言われているのが印象的です。その後「真理について証しをするために生まれ……」と宣言されます。この点に注目したいです。イエスがこの世にいる、イエスの存在自体が、使命の目的の宣言です。「ために」という使命を示す語が2回もつけ加えられています。ちなみに、イエスがご自身の出生について語っておられるのは、この個所だけです。
イエスの答え次第で、確実に十字架の道に導くことが分かっているとき、このイエスの宣言は心を打つミッション宣言です。イエスは十字架の死にいたるまで、父のみ心に徹した方でした。主の祈りで、主の「み国が来ますように」と祈るときに、イエスの声に耳を傾け、イエスの生きられた道を私たちも従っていけるように、祈り求めましょう。
C年
第1朗読では、サムエル記下5章が読まれます。サムエル記は、士師たちの時代がすぎて、いよいよイスラエルに王が誕生するいきさつが書かれており、「王国の書」とも呼ばれています。イスラエル民族に王が立てられてから、ダビデ王最後の年にいたるまでの100年にわたる神と民、民と牧者の歴史が書かれています。
この日読まれるところは、ダビデがイスラエルの10部族から正式に王として認められ、即位のための塗油を受けたことを伝える短い記事で、イスラエルの歴史において大切な意味をもつ箇所です。
ダビデは、(1)ベトレヘムで預言者サムエルから、(2)サウルの死後ヘブロンでユダ族の人々から、(3)北イスラエルの人々からと3回即位の塗油を受けており、今日読まれる箇所は(3)です。
当時、諸外国では王が神々と同一視される傾向にあったのですが、イスラエルでは、唯一の神と契約が最優先されていました。ダビデが油注がれたことにより、彼を首長とする統一国家が誕生したことになります。この契約はイスラエル史とその神学に大きな影響を与えました。今日読まれる箇所は短いとはいえ、イスラエル史にとって大きな出来事を内蔵する偉大な出来事を示しているのです。ダビデ王の姿は、神のため民に仕える「牧者」の姿としてのイメージです。この姿はキリストに引き継がれていきます。
第2朗読では、パウロのコロサイの信徒への手紙が読まれます。この手紙は61年ごろ囚われのローマから書かれた獄中書簡のひとつです。当時のコロサイ地方の教会は、フリギア人、ギリシア人、ユダヤ人などがいて、キリストの教えを様々な思想、宗教と混合させ、霊力崇拝や天使礼拝などが強くなっていました。
  「人間の言い伝えにすぎない哲学、つまり、むなしいだまし事によって人のとりこにされないように気をつけなさい」(2章8節)と書かれているように、パウロはそれが信仰をゆがめるものであると知り、牢獄からこの手紙を書きました。今日読まれる12~14節は、神が「私たち」に何を言ってくださっているかを述べており、続く15~20節は、初代教会に伝えられていたキリスト讃歌からの引用であると言われています。
パウロは、十字架に現れた神の愛を解き明かし、創造も救いもキリストをとおしてきていることを宣言しています。王であるキリストを祝うこの日、教会は闇から光へと移行させてくださったキリストを仰ぎ、その方に全宇宙を統合する焦点を見ています。詩のように美しい今日の箇所は、教会の祈りの中でも祈っている箇所(晩の祈り 第1週水曜日)です。今日はゆっくりと、この箇所を唱えてみてはどうでしょうか。
年間最後の主日であり王であるキリストを祝う今日の福音は、王であるキリストと十字架上の受難のつながりを伝えている箇所です。十字架をとりまいて、さまざまな人が登場します。イエスが犯罪人と共におられます。その人々は、十字架上のイエスをあざ笑う議員たち、酢をつきつける役人、立ってながめている群衆、キリストならその力を見せよと迫る犯罪人。彼らにとってメシアは、この世をうち立てる王であり、彼らはキリストを信じ、その苦しみにあずかっている人々を嘲笑します。もう一人、「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに」と自分を振り返りながら、一緒に十字架につけられた犯罪人をたしなめる犯罪人がいます。彼は、善き盗賊人と呼ばれています。
十字架上で、イエス・キリストの生涯で一番屈辱的なこの時に発せられた「善き盗賊」人の言葉は、自分の十字架の刑罰は当然のことと認め、罪を告白してあわれみを乞い、イエスの無罪を宣言します。
「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と、彼は、いつくしみと正義による神の支配をもたらす王としてイエスを仰ぎ見ています。この罪人の回心の出来事を伝えているのは、ルカだけです。イエスは、彼に「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われます。「ユダヤ人の王」と書かれた札をつけた十字架のイエスが、最初に王権を発した言葉はこの罪人に対してでした。民のために仕え、死を身に受けたこの主キリストの姿を仰ぎ見る1日としましょう。
 
                        待降節について
 
典礼暦上の一年の始まりです。主の降誕 (12月25日)の4つ前の日曜日から主の降誕の前晩のミサの直前まです。(待降節は11月30日、もしくはそれに近い主日の「前晩の祈り」にはじまり、主の降誕の「前晩の祈り」の前に終了します。
待降節を守る習慣は、5世紀ころからはじまったといわれています。主の公現の祝日までの40日間を四旬節の期間にならっていました。
後に、キリスト誕生の準備期間とされ、現在の4つの主日になりました。カトリック教会は、待降節をキリストが誕生された日、クリスマスを待ち望み準備する期間として過ごします。また、待降節の前半は、終末におけるキリストの再臨に私たちの心の目を向けさせる終末的色彩の濃いときでもあります。
歴史は、人間の数限りない神へのそむきと、それにもかかわらずたえず人に回心を呼びかける神のいつくしみとで織りなされていますが、まさに、待降節はこの人間の罪の闇と、いつも人間を受け入れてくれる神の愛のあたたかさのコントラストが最もはっきりしている季節です。
この待降節中に読まれる聖書は、第1朗読の旧約聖書では、救いの日の訪れを告げる預言書が読まれます。第2朗読では、主の再臨を待望するにあたっての教訓、勧告をのべた箇所が読まれます。福音書では、終末における主の再臨や第一の来臨を準備した洗礼者ヨハネの記事などから選ばれています。
待降節の典礼色は紫色です。待降節第3主日には、バラ色を用いることができます。
アドベント・カレンダーやろうそくは、私たちの心にキリストを待ち望むことを呼びかける助けとなっています。
待降節は、アドベント (Advent) は、カトリック教会において、イエス・キリストの降誕を待ち望む期間のことです。日本語では待降節(たいこうせつ)、降臨節(こうりんせつ)、または待誕節(たいたんせつ)といいますが、教派によって名称が異なり、主にカトリックや福音主義教会(ルター派)では待降節、聖公会では降臨節と呼んでいます。
アドベントという単語は「到来」を意味するラテン語Adventus(=アドベントゥス)から来たもので、「キリストの到来」のことである。ギリシア語の「エピファネイア(顕現)」と同義で、キリスト教においては、アドベントは人間世界へのキリストの到来、そして、キリストの再臨(ギリシア語のパルーシアに相当)を表現する語として用いられる[2]。
カトリック教会では、前述の通り1年は待降節から始まるりますが、クリスマスカードの一般的なあいさつに「A Happy New Year.」が使われるのはこの意味からです。
待降節の始まりの日にち(ただし必ず日曜日から)は、その年の12月25日を基準にするため、その年によってが違いますが、11月30日の「聖アンデレの日」に最も近い日曜日からクリスマスイブまでの約4週間で、最も早い年で11月27日、遅い年でも12月3日に始まります。5世紀後半に、クリスマス前の断食の時期として、聖マルティヌスの日が開始日と定められましたが、後にグレゴリウス1世の時代に、4回の主日と定められました。最初のアドベントを待降節第一主日と呼び、その後、第二、第三、第四と主日が続きます。
アドベントには、ろうそくを4本用意して、第一主日に1本目のろうそくに火をともし、その後、第二、第三、第四と週を追うごとに火をともすろうそくを増やしていくという習慣があります。この習慣は、一説によると、ドイツ国内の伝道の祖といわれるJ・H・ヴィヒャーンが始めたもので、ハンブルクにある子供たちの施設「ラウエス・ハウス」(粗末な家)で初めて行われたそうです。当時は、クリスマスまで、毎日1本ずつそうそくを灯したともいわれています。
「アドベントクランツ」(または「アドベントリース」)は、常緑樹の枝を丸くまとめ、装飾したものに、4本のろうそくを立てたものですが、アドベント用に4本のろうそくが立てられる燭台を用いたものもあります。クランツのモミの枝は降誕日を、4本のろうそくは待降節の4回の主日を意味しています。クランツ(冠の意)は称賛や崇敬を表し、王たる存在のイエスを象徴し、常緑樹の緑色は救い主イエスの永遠の命を意味していると言われています。
通常、ろうそくの色は白または典礼色に倣い紫ですが、第三週のガウデテ・サンデイのみはバラ色のろうそくを用いる場合もあるようです。また、家庭においてはろうそくの色は自由であり、実にさまざまなものが存在します。
子供たちの楽しみとしてアドベントカレンダーがありますが、紙や布などで作られ、待降節の始まりから12月25日までの日付の窓やポケットがついており、ポケットに天使やサンタクロースなどの小さなぬいぐるみを入れたり、その日の窓やポケットを開くとイラストが現れたり、お菓子が入れてあったりとさまざまですが、いずれにしてもクリスマスを心待ちにし、敬虔な気持ちで待降節を過ごすことを子どもたちに教えるための待降節の飾りです。また、救い主イエス・キリストの誕生物語(Nativity)をあらわす馬小屋は、待降節には欠かせないものです。
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「4→6・45通信」は、「国道4号線沿い(内陸部)から国道45号線沿い(岩手~宮城沿岸部)、6号線沿い(福島県沿岸部)への支援」という意味が込められています。
2013年5月から2016年8月まで、月に一度発行しておりました。
 
    仙台司教区内にある小教区の配置図と
地区別に小教区の詳細をご紹介します。
小教区は現在工事中です。
   順次掲載してまいりますが、しばらくお待ちください。
 
福島デスクは福島県内での支援活動の調整や情報発信、地域諸団体との連携のため、2012年12月に設立され、2017年4月に活動を休止しました。その間に発行したニュースレターをご覧いただけます。
◎2025.07.31 第二次2025年度(第2次)司祭人事異動
◎2025.0401 2025年度仙台教区年間予定
◎2025.0401 2025年度司祭・助祭居住のお知らせ
◎2025.0401 2025年度(第一次)司祭人事異動
◎2025.0104 聖年2025年司教年頭書簡
◎2025.01.01 2025年司教年頭書簡駅伝動画
◎2025.01.01 2025年の年頭書簡の送付について
◎2025.01.01 第58回「世界平和の日」教皇メッセージ
◎2024.12.16 2025年通常聖年開幕式ミサについて
◎2024.12.16 仙台教区聖年巡礼所について
◎2024.11.26 現勢報告入力フォームについて
◎2024.11.01 2024司祭人事異動(第四次)
◎2024.10.30 第8回「貧しい人のための世界祈願日」
◎2024.10.28 「2025聖年 希望の巡礼者」について
◎2024.9.01 「被造物を大切にする世界祈願日」                                    教皇メッセージ
◎2024.7.18 日本カトリック司教文書
                    『見よ、それはきわめてよかった
                    総合的なエコロジーへの招き』
                    出版記念シンポジウム
◎2024.7.16 訃報 首藤神父様の通夜・葬儀予定
◎2024.6.07 2024年度(第三次)司祭人事異動
◎2024.6.07 仙台教区感染症対策について 
◎2024.5.26 世界こどもの日教皇メッセージ
◎2024.4.12 アドリミナ動画
◎2024.4.12 バチカンニュース
                           日本司教団アドリミナ記事
◎2024.4.12 2024年度教区行事予定表
◎2024.3.13 2024年度司祭派遣人事(第2次)
◎2024.3.2
・性虐待、性暴力、ハラスメント防止宣言
◎2024.2.19
・「性虐待被害者のための祈りと償いの日」のお知らせ
◎2024.2.14
・2024年「性虐待被害者のための祈りと償いの日」にあたって
◎2024.2.10 2024年四旬節教皇メッセージ
◎2024.2.2 2024年度人事異動について
                「世界病者の日」教皇メッセージ
◎2024.1.25 新駐日教皇大使任命について
◎2024.1.23
・教区事務所より「メールについて」のお知らせ
◎2024.01.15
・能登半島地震「災害被災者のための祈り」(YouTube)
・災害被災者のための祈り(カード)
◎2024.01.10 能登地震に関する案内・報告
・能登半島地震被害についての報告と対応
・能登半島地震石川地区・富山地区の状況
・能登地震災害情報報告と対応および緊急支援募金
・能登地震災害緊急支援募金について
◎2024.01.01 第57回「世界平和の日」教皇メッセージ
◎2024.01.01 2024司教年頭書簡
◎2023.12.21 「カトリック仙台教区司祭による性的暴行訴訟の件」について
◎2023.12.01 新型コロナウイルス感染症にともなう措置
◎2023.11.24 教会現勢報告調査票
◎2023.11.15
世界第7回「貧しい人のための世界祈願日」教皇メッセージ
◎2023.10.25
  世界代表司教会議(シノドス)第16回通常総会『神  の  民への手紙』:日本語、英語、フランス語、ドイツ語、イタリ   語、スペイン語、ポルトガル語、ポーランド語、スワヒリ語、タミ  ル語、ベラルーシ語、中国語繁体字、中国語簡体字、テゥ  ム(東ティモール)語、マレー語
◎仙台教区司祭・教区本部人事異動
◎第3「祖父母と高齢者のための世界祈願」教皇メッセージ
◎愛のあかし元和の大殉教400年記念第1回シンポジウム
◎仙台教区報No.250
◎2023年教区新地区・司祭派遣のお知らせ
◎「教会現勢調査票」について
◎新型コロナ感染症第7波に伴う教区の対応について
◎エドガル司教コロナ感染症、感染について
◎釜石教会70周年記念はがきについて
◎平和を求める祈り
◎法務大臣宛司教要請文:日本を故郷と思っている子供たちとその家族を追い出さないでください
◎在留特別許可嘆願署名キャンペーン
◎第2回「祖父母と高齢者のための世界祈願日」のための祈り(邦訳とEnglish)
◎訃報ケベック外国宣教会司祭ボリュー神父・ベルニエ神父
◎2022年「世界広報の日」教皇メッセージ(2022.04.08)
◎ガクタン・エドガル被選司教司教叙階式・着座式ミサ 動画配信のご案内(2022.03.01)
◎Holy Year 2025 New Year Messege(Vietnamese)
◎Holy Year 2025 New Year Messege (English)
◎ Holy Year 2025 New Year Messege
◎ Messages World Day of Peace
◎ 2025 là Năm Thành trong môt Săc lênh cô        tra dê “Hy vong không làm thât vong”.
◎ 2025 Jubilee Year in a Bull entitled “Hope
does not disappoint”.
◎ Measures against infectious disease in Diocese Sendai
◎ Catholic Sendai Diocese Newslrtter No.254
◎ Mass In Your own Languages July
◎ Appointment of Priests for the Year 2024
        English and Vietnamese
◎2024.01.01New Year's Messege of Bishop Edogr Gacutan
◎2023.12.1
In light of the opinion of Catholic Medical Association of Sendai regarding the new coronavirus.
◎2023.10.25
Letter of the XVI Ordinary General Assembly of the Synod of Bishops to the People of God:
JAPANESE、ENGLISH、FRENCH、GERMAN、ITALIAN、SPANISH、PORTUGUESE、POLISH、SWAHILI、TAMIL、BELARUSIAN、CHINESE
TRADITIONAL、CHINESE,
SEMPLIFIED、TETUM (Timor Leste) 、MALAY
 
◎information
◎mass schdule
◎help desk
      (仙台教区人権を考える委員会)
「ニュースレター」として親しまれた本紙も、最終号を皆様にお届けする時を迎えました。3.11のあの混乱の中で、第1号を出したのは、2011年4月30日でした。第1号は「ありがとう。届いています」と皆様からの献金と支援物資が届けられていることをまず、感謝していますが、これは、10年間ずっと続いてきたことでした。ボランティアとして、支援者として、ベースでの奉仕活動をとおして、全国の教会の皆様が被災地に目を注ぎ、いつも温かく支えてくださったおかげで、最終号・145号まで続けることができました。仙台教区サポートセンターは3月31日で閉鎖されますが、各ベースでの支援活動は続きます。これからも、皆様のこれまで以上の支えが必要かもしれません。最後にもう一度、本紙の読者の皆様に心よりの感謝を申しあげます。ありがとうございました。
カトリック仙台司教区へようこそ
11月の典礼 11月2日(日) 死者の日 11月9日(日) ラテラノ教会の献堂 11月16日(日)  年間第33主日 11月23日(日) 王であるキリスト 11月30日(日) 待降節第1主日
 




   
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