1.主の昇天 本来は復活の主日の40日後(木曜日)だが、日本ではその後の日曜日に祝われる。祭日。
 
主の昇天については、マルコ福音書で「主イエスは、弟子たちと話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた」(16・19、ルカ24・50-53と使徒1・9-11参照)とあるように、キリストが死んで3日目に復活し40日目に天に昇ったことを記念します。
キリストの昇天は、キリストが天に昇り、神の右の座に着いたということから人間として神の栄光の状態に上げられ、また御父のもとで最高の権威に参与されたことを意味します。
さらに当日のミサにおける集会祈願では、「全能の神よ、あなたは御ひとり子イエスを、苦しみと死を通して栄光に高め、新しい天と地を開いてくださいました。主の昇天に、私たちの未来が示されています。キリストに結ばれる私たちをあなたのもとに導き、ともに永遠のいのちに入らせてください」と唱えるように、キリストの昇天が私たちの昇天の原型であり、保証でもあります。それで私たちは、私たちに先駆けて天の栄光に入られたキリストに倣って、いつか彼とともにいることができるという希望のうちにこの出来事を祝うのです。
主の昇天は、キリストの復活後40日目の出来事でしたので、これに基づいて典礼暦では伝統的に復活の主日から40日目の木曜日に祝ってきました。しかし、日本のようにこの日を祝うために週日に集まることが難しい状況を考慮して、第二バチカン公会議後に行われた典礼暦の改定では、「主の昇天の祭日は、復活節第七主日に移す」(「典礼暦年に関する一般原則」7のロ)ことができるようになっています。
主の昇天の祭日は、イエス・キリストの十字架とは、死とは、いったいなんであったのかについて一つの答、意味を示しています。主のご昇天は、キリストの死と復活に続いて語られる話ですが、昇天はそれらとどのような関係があるのか、この日の朗読は教えてくれています。
主の昇天の出来事により、イエスと弟子たちとの交わりは一つの転機を迎えます。それは、教会の活動の幕開けの時が告げられることであり、イエスが告別の説教で告げておられた聖霊による新たな交わりの時の到来です。
第1朗読では、ABC年とも、使徒言行録冒頭部分であるご昇天の出来事の叙述が読まれます。それは、ルカ福音書の続きとしてこの書がつづられているということではじめられています。その記述の後、イエスが復活後40日間に語られたことを紹介し、昇天の出来事の詳細を述べます。ルカが記すこのような記述は、他の福音史家がだれも述べないことなので大切な文献となっています。
次に、イエスはご昇天に先立って弟子たちに聖霊が降ることについて語られます。
あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。
こうして教会のはじめの時がはじまる聖霊降臨が告げられ、聖霊を受ける弟子たちは力を受け、イエス・キリストの証人となり、福音をすべての人に宣べ伝える使命を果たします。この宣教の使命は、使徒言行録のメインテーマです。その話の後、「イエスは彼らが見ているうちに天に上げられ」、イエスは「雲に覆われて彼らの目から見えなく」なります。この時こそ、教会が救いの担い手となっていく時です。
天と地における出来事は、別々のものではなく同時に進行しているものです。イエスが「主」となられたので、イエスの後を継いでいる弟子たちの業は、新たな場、全世界において再現されていきます。ですから、弟子たちは悪霊を追い出し、病人をいやし、福音を宣べ伝えていくのです。こうして、終末に向けての新しい時代がはじまります。
この日祝う主の昇天は、イエスの地上での使命の終局、聖霊降臨の序曲、つまり、イエスが聖霊による新しいあり方で人々の中に生きるはじまり、永遠の大司祭職の行使のはじまりでもあるのです。
天使の告げる言葉、「なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる」とは、なんと印象深い言葉でしょうか。
第2朗読では、ABC年共通にエフェソの信徒への手紙が読まれていましたが、1981年に公布されたミサ聖書配分では、C年にヘブライ人への手紙が読まれるようになりました。
パウロは、キリストがささげた犠牲が比類ないものであることを述べるにあたって、旧約との比較の中で一大飛躍を試みます。つまり、「あがないの日」の犠牲は聖所の汚れを取り除きますが、キリストの犠牲は、地上のものばかりではなく、天のものも浄めることができるのです。キリストの業が天でも地でも効力をもつということは驚くべきことです。宇宙的贖罪と言われ、見えるもの、見えないもの一切が浄められるのです。キリストのみ業と犠牲が最大のものであることについて著者は次の点をあげます。
・キリストは、「人間の手で造られた聖所にではなく、天そのものに入り…神の御前に現れてくださった」
・ キリストがそうなさったのは、私たちのためであること、私たちのために取りなしをしておれらること
・ キリストは、「多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられ」、繰り返す必要がないこと
パウロは、自分が述べてきたことを実際生活にあてはめようとします。
・ キリストは、神のみもとに導いてくださる「新しい生きた道」であること
・ キリストは神と人を結ぶ大祭司であること
  ですから、次のようにすすめます。
・ 信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか
・ 公に言い表した希望を揺るがぬようしっかり保ちましょう
 
福音書を理解する鍵は、福音書の結びであるといわれています。この日読まれるルカ福音書は、「イエスは、…祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた」というイエスの姿を描いています。そして、弟子たちは、「…、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた」で結ばれています。イエスの別れが、喜びと賛美の雰囲気の中に物語られています。
ルカの福音書のはじめに、祝福、神殿、喜び、賛美というテーマが登場しましたが、結びにも同じテーマが登場しています。こうして、旧約から新約へと受け継がれていくことを示しています。
ルカにとって、エルサレムは救いの歴史の中心でした。イエスの生涯はすべてエルサレムに向けられています。イエスは、エルサレムに向かって旅をしていたと書いています。復活後のイエスの出現も、すべてエルサレムとその周辺に限られています。この「エルサレム」という言葉には、いろいろの意味があります。エルサレムは旧約の時代から神の民の都、神殿のあった信仰の中心地でした。イエスの救いの業がまっとうされる舞台、今は天の「新しいエルサレム」として神の国の完成した姿を示しています。
福音史家たちは、それぞれだれに向けて語ったかにより、その目的を変えてつづっています。この機会に福音書を読み比べてみるのもいいかもしれません。
エマオで現れる   ルカ福音書 24.13~35
弟子たちに現れる   ルカ福音書 24.36~43
マルコの福音書の結び   マルコ福音書 16.9~20
弟子たちを派遣する   マタイ福音書 28.16~20
イエスの最後の言葉   マルコ福音書 16.15、19 ルカ福音書 24.44~53
ルカは、イエスの昇天を述べる前に弟子たちの使命について述べています。
・ メシアは苦しみを受け、
・ 三日目に死者の中から復活する。
・ また、罪の赦しを得させる悔い改めが、
・ その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる
・ あなたがたはこれらのことの証人となる。
 
弟子たちは神が述べ伝える悔い改め、イエスの受難と復活を見聞きして、それをすべての国に述べ伝えます。使命について語られた後、イエスは弟子たちを「祝福しながら彼らを離れ、天に上げられ」ました。
それをみた弟子たちは、「イエスを伏し拝み」、「大喜びでエルサレムに帰り…神をほめたたえ」ながら、父なる神が約束してくださった聖霊をまちます。
イエスのご復活の後、教会はご昇天を祝い、さらに聖霊降臨、三位一体と祝っていきます。イエスが父のみもとに帰ることによって聖霊を遣わされる、実にイエスの昇天は天と地を結びあわせるものでもあるのです。そう考えるとこの祝日は、私たち一人ひとりの祝日でもあるのです。
 
2.聖霊降臨の主日
主の昇天の木曜日から10日後の日曜日。祭日。(年間 聖霊降臨の主日の翌日から、中断していた「年間」の時期が再開する。)
 
霊降臨祭を祝う今日の主日は、新約聖書において「五旬祭(ペンテコステは、ラテン語: Pentecoste)」(使徒言行録 20.16)と呼ばれています。(過越祭から50日目にあたるので、そう呼ばれていました。)
「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると」(使徒言行録 2.1)「パウロは、アジア州で時を費やさないように、エフェソには寄らないで航海することに決めていたからである。できれば五旬祭にはエルサレムに着いていたかったので、旅を急いだのである。」(使徒言行録 20.16)「しかし、五旬祭まではエフェソに滞在します。」(Ⅰコリント 16.8)
聖霊降臨は復活の極みです。神のご計画は、死んで、復活し、父の右にあげられたキリストが、使徒たちの上に聖霊を送ることにより完成されたのです。聖霊降臨の出来事は、神との新しい契約に結ばれた民の旅立ちを意味しています。ここに、救いの訪れをあかしし、罪のゆるしを宣言する福音宣教の時代がはじまるのです。
第1朗読では、最初の聖霊降臨の日の出来事が朗読されます。
イエスによって預言されていた聖霊の降臨は、五旬祭の日に、数々の不思議な出来事によって成就されました。この出来事はキリストの昇天の後、弟子たちがマリアと共に心をひとつにし、祈っていたときに起き、一同が聖霊に満たされました。
「皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。」(使徒言行録 1.14)
使徒言行録が描く聖霊降臨の出来事は、シナイ山での神の顕現に関連づけられています。この聖霊の降臨は、弟子たちのみでなく、そこにいた人々にも起こりました。聖霊は人の心と心を結んだのです。
「一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」(使徒言行録 2.4)
彼らは、聖霊に満たされ神の言葉を語ることを体験します。この体験は、そこに集まっていた人々にも自分の国の言葉で聞いて理解できたという体験になりました。民族や言語の違いを越えて、人類の一致へと導く聖霊の力強い働きが開始されます。この日という時代にこの日の出来事は、大きなメッセージを残してくれているのではないでしょうか。
「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」と、今日の第2朗読ははじまります。霊のたまものによるいろいろの働きが活発であったコリントの教会では、それゆえに分裂することがありました。使徒パウロは、一つひとつのたまものは同じ霊によるものであり、同じ主への奉仕をとおして神にささげられるもの、一致のためのものであることを再確認させています。
聖霊の働きかけにより、各自は手、足のようにそれぞれ違った働きをしながら、お互いに補いあい、キリストの体、教会が生まれます。「皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。」この“一つ”の中での各自のたまものの豊かさ、違いこそ生きたものになる、これこそ今日の世界情勢の中で重要な指針となるのではないでしょうか。
この日読まれる福音書の箇所は、ヨハネの「聖霊の降臨」と呼ばれているところです。
イエスは、ユダヤ人をおそれて家にひそんでいる弟子たちのところに現れ、息を吹きかけ、「聖霊を受けなさい」と言われます。イエスが与える聖霊は、弟子たちにどんな働きを引き起こすのでしょうか。聖書の中での聖霊の働きはどのように語られているかを見ていくと、それを知ることができます。
  この日の福音書では、イエスが弟子たちに罪をゆるす権能をさずけ、弟子たちが聖霊による和解のつとめを与えられたと理解できます。ゆるしはいやされるだけでなく、他者と自分とのこわれた関係を再び結びつけます。また、一致を実現していく聖霊の働きが強く感じられます。この聖霊の働きこそ、今日に必要なたまものかもしれません。
「みなが一つになるように」(ヨハネ 17)とのイエスの悲願の祈りが、よみがえってきます。報復してやりたいとの欲望の中では、いつまでたっても訪れることのない平和。人間関係を修復するよりも相手を責める方が、自分の内面を見つめないですむので楽に思えます。そこを通り抜けさせてくれるのは恵みです。一つになるように、真に平和を乞い願いながら、「聖霊来てください」の祈りをしたいものです。
 
3.三位一体の主日
 
聖霊降臨の主日の1週間後の日曜日。祭日。
先週の日曜日に聖霊降臨の主日を祝った教会は、翌月曜日から年間に入ります。教会は、キリストの死と復活、聖霊降臨という偉大な秘義を祝ったキリスト者は、その救いが父と子と聖霊のわざによるものであることを思い、味わいます。その日が三位一体の主日なのです。
三位一体の神秘は、私たち人間の知性では決して知ることのできなかったことです。それを私たちに教えてくださったのは、他でもなく、イエス・キリストです。教会はイエスが教えてくださった神をできるだけ忠実に表そうとして、歴史の中で「三位一体の神」というキリスト教的な神理解が明確になっていきました。三位一体の神秘は、新約聖書の中でほとんどいつも“派遣”というテーマで啓示されています。私たちの救いのために、父が子を派遣し、父と子とが聖霊を派遣するというテーマです。
イエス・キリストは、私たちに三位一体の神秘を啓示してくださったばかりか、私たちを三位一体の内面のいとなみに招き、導いてくださいます。
三位一体のためのミサの祈願は、8世紀半ばの典礼書に見ることができます。1334年 教皇ヨハネ22世は、三位一体の祝日を全世界の祝日として制定しました。1570年のピオ5世の「ミサ典礼書」以降、教会に定着しました。教会は、この救いの神秘の祝日を大切に伝えています。私たちが十字を切る度ごとに、この恵みを思い起こすことにしましょう。
三位一体のためのミサの祈願は、8世紀半ばの典礼書に見ることができます。1334年に、教皇ヨハネ22世によって導入され、1570年のピオ5世の「ミサ典礼書」以降、教会に定着し、教会はこの救いの神秘の祝日を大切に伝えてきました。
教会の祝祭日は、キリストの出来事を記念し、その日の福音書は、それを理解するために選ばれています。三位一体の主日は、歴史的には、教会の教義をつくりあげていくときの影響を受けているので、理念の祝日ともいわれているほどです。
 
注)三位一体の神秘
「三位一体」とは、「一なる神」のうちに、父と子と聖霊という三つの「位格(ペルソナ)」があるというキリスト教の最も基本的な教義である。イエス・キリストが「神性」と「人性」を共に有すること、すなわち神であり同時に人間であることを基本的な内容とする「キリスト論」とともに、「三位一体論」は、キリスト教の最も基本的な教えとして、古代以来、受け継がれてきた。
  「神であると同時に人間である」とか、「一なる神のうちに三つの位格がある」といった、いかにもありえそうにないことが根本的な教えとして確立したという事実は重要である。キリスト教の教えのなかには、我々に違和感を与える多くの要素が含まれているのである。
だが、そのことは、キリスト教の信頼性を揺るがすものではない。キリストの教えは、神から与えられたものであるからこそ、人間にはすぐに理解したり解読したりすることのできない多くの謎を秘めたもの(神秘)になっていると、神学者たちは考えてきた。
神の神秘は、理性を「超えている」が、理性に「反している」わけではない。理性を超えているからこそ、理性による探求を絶えず促し続ける。そして、そうした探求は、「神」についてのみではなく、「神の像」として創造された「人間」についても様々な洞察を与えていく。
父と子と聖霊が自立した存在でありながら永遠の一なる交わりのなかにあり続けているという神秘。それは、我々人間もまた、お互いに自立した存在でありつつも愛の深い交わりのなかにあり続けることができることのモデルとして捉えることもできると、多くの神学者たちは考えてきた。「自立性」と「関係性」とは矛盾せず、むしろ、他者との深い「関係性」のなかでこそ、真の「自立性」は存在する。一見難解な「三位一体」の教えもまた、「愛」というキリスト教の最も根本的な教えと深く繋がっているのである。
(『聖書と典礼』2020年6月7日号表紙絵解説 山本芳久 東京大学教授)
 
A年
第1朗読では、出エジプト記が読まれます。今日読まれる34章は、31章以下で物語られている「黄金の子牛」により破棄された契約の2度目の締結となっています。
  日読まれる箇所を理解したいと思うなら、32章から読むといいでしょう。神とモーセとの会話から、今日の34章の偉大な神顕現へと導かれていきます。今日の朗読箇所は、旧約の中で最も偉大な神顕現の一つとされています。
「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち(た者)」と、主の名が宣言されています。神の顕現の前に、神のご好意の前に、モーセは地にひざまずき、ひれ伏しています。このモーセの態度は心打つ姿勢です。この神は三位一体の神として示されているのです。
第2朗読では、コリントの教会への第2の手紙の結びのあいさつです。ミサの開会の言葉が、ここからとられているのにお気づきでしょう。
パウロは、「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように」と祈るのです。「交わり(コイノニア)」とはキリストをとおして実現される究極の救い、「神と人との最も親密な交わり」です。ミサに参加する度ごとに、この神との交わりに招かれ、神が私たちといつも「共にいてくださる」ことを思い起こしましょう。
今日読まれるヨハネ福音書は、ヨハネ福音書の中で4回しか使用されていない「独り子」という用語が2回出てくる大切な箇所で、子をとおして示された父の愛について述べています。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(16節)
三位一体の神秘、神の奥深い内面生活に関する神秘です。私たちの理性では知ることのできなかったもので、それをイエスが教えてくださったのです。
 
B年
私たちは、「父・子・聖霊」の名によって洗礼を受けたことを思い出すとき、今日の祭日を身近に感じることができます。
第1朗読では、申命記から読まれます。申命記は30章まで、ヨルダン川を渡る前の荒れ野で、モーセがイスラエルの民に語った最後の演説の形をとっています。
1~3章は、ホレブを出てヨルダン川の向こう岸までの占領経過を述べ、4章からは、その神学的意義の説明をします。今日読まれる箇所は、イスラエルを他の国民から神が選んでくださったことについて述べています。出エジプトの出来事をとおして、神がイスラエルの民にしてくださった数々の業を述べ、民の体験に訴え、主だけがイスラエルの神であると述べています。このことをわきまえ、心に留めるように、命じられたことをすべて守るように、と述べます。イスラエルの民は、自分たちの歩みを導き、未来を約束してくださる神と出会わせていただいたのです。「モーセの遺言」と言われているとおり、非常に人の心を打つ書、神がどれほどイニシアティブをとって民を導き、守り、共にいてくださる方であるかが伝わってきます。一度ゆっくりとこの書全体を読まれることをお勧めします。
第2朗読は、ローマの信徒への手紙の中心部分です。先週、教会は聖霊降臨の祭日を祝い、教会の聖霊体験について祈りました。この同じ体験を私たちは繰り返しているのです。パウロが、私たちは「神の子とする霊を受けたのです」と言うように、今日の手紙は私たちキリスト者のいのちを語っています。一人ひとりは、聖霊に導かれ、父との交わりの中に生きているのです。それがキリストと共に生きるということです。
「アッバ」とは、アラマイ語で「お父ちゃん、父ちゃん」というような親しい呼びかけだそうです。神をそのように親しく呼ぶ関係にしていただいた神秘を味わいたいものです。ことに「主の祈り」で「父よ」と呼びかける時、このように呼びかけるようにしてくださり、この祈りを教えてくださった主への感謝をこめて、特別な味わいをもって祈りたいものです。
今日の福音は、マタイ福音書の結びが読まれます。すべての人に向けて弟子を派遣する言葉です。イエスに出会ってひれ伏した弟子たち、彼らはイエスの中に神の子の姿を見ていると言えるでしょう。イエスは、弟子たちに「彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け」なさいと命じられます。イエスの最後の言葉は、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」という約束です。
人と「共にいる」神、それが福音書の最後の言葉なのです。何と力強い約束ではありませんか。共にいてくださる神なら、何を恐れることがあるでしょうか。「父と子と聖霊とのみ名によって(おいて)」と十字架を切りながら、父・子・聖霊への賛美をささげましょう。これこそ、共にいてくださる神に対する信仰告白です。
 
C年
今日の第1朗読は、箴言、別名「格言の書」と呼ばれる書からです。これは、名の示すとおり実践的な教訓の集大成で、紀元前6~5世紀(ソロモンの時代から捕囚後の時代)ごろまでの時代の知恵を集めた書で、知恵文学に分類されています。箴言の中には、ソロモン王自身の金言も含まれています。
知恵文学はイスラエルだけに見られるものではなく、他の国にも見られ、エジプトの知恵文学からの影響も強く見られると言われています。
箴言は、5部から構成されています。
(1) 1/1~9/19、(2)10/1~22/16、(3)22/17~24/34、(4)25/1~29/27、(5)30/1~31/31で、(2)と(4)は一番古いものと言われますが、今日読まれる箇所は、(1)に属し捕囚後のものと言われています。
イスラエルの賢人は、歴史のはじめから人生経験により身につけた教訓をとおして民の実生活を指導してきました。イスラエルの民にとっての知恵は、このような教訓を意味していましたが、箴言が編まれるころには、知恵が人格化されて語られるようになり、その起源と本質が明らかにされます。
今日読まれる箇所は知恵の呼びかけの一部であり、擬人化された知恵、「わたし」の誕生について語っています。この知恵は、「わたしはそこにいた」とあるように、神の創造のわざに先立ち、そのわざに参与しており、知恵は、神と世界を結びつける働きをもつと考えられるようになります。知恵が、「御もとにあって、……主を楽しませる者となって……主の造られたこの地上の人々と共に楽を奏し人の子らと共に楽しむ」と終える今日の第1朗読ですが、この知恵の楽しみに私たちもあずかりたいものです。
第2朗読は、ローマの信徒への手紙です。今日の朗読は、「このように」とはじまりますが、それを理解するには3~4章を読む必要があります。この機会に読んでみてはいかがですか。
今日読む箇所は、1~5節と短いものですが、中身は濃厚です。パウロの展開するテーマ、信仰と義、平和、希望……、そして私たちの心に注がれる聖霊について述べています。 神の愛によって注がれる聖霊は、いつも信じる者の内側から働きかけます。聖霊の内在については、すでに旧約聖書に語られています。エレミア書31章33節、エゼキエル書36章27節です。聖霊についてパウロは、8章において詳しく説明します。使徒として働く信仰生活の深い体験として語るパウロは、心の中に住む神の平和についても語ります。パウロが平和、希望……を確信をもって語るのは、一人ひとりの心に神の愛である聖霊が注がれているからです。この愛の霊、聖霊に気づきたいものです。
  「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」との今日の結びの言葉を、何度も何度も口ずさみながら、この言葉が私の中に自然と融和するまでに繰り返して祈っていきながら、この霊、神の息吹に私たちの身をゆだねる日としてはいかがですか。
この神の息吹である聖霊は、私たちの中で信仰生活の真の内容でもある愛と平和を築いてくれるでしょう。パウロは、これを告白しているのです。
今日の福音は、イエスの別れの言葉(告別説教)から読まれます。その中で、イエスは聖霊の派遣について何回か語られますが、今日読まれる箇所は、その約束の5回目、最後の「真理の霊」の派遣についての約束です。
この世を去るにあたって、イエスは、「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない」と言われます。この時のイエスの心はどうだったのでしょうか。あなたは、どう感じられますか。
しかし、聖霊にすべてを託されるのです。
今日読まれる12~15節の中に聖霊について、「その方」と4回も使われています。
・ その方、すなわち、真理の霊が来ると、
・ その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、
・ その方はわたしに栄光を与える。
・…その方がわたしのものを受けて、…
 
イエスのように、イエスの中に入って、私たちも「その方」と呼んでみてみてはどうでしょうか。
ヨハネにとって聖霊は、私たちを、真理であるイエスの言葉の中に導き、その言葉のもつ一切のことをことごとく知らせる方です。つまり、聖霊は新しいことを啓示なさる方ではなく、イエスの言葉、出来事、終末的出来事の中に含まれている本当の意味を明らかにされる方なのです。
今日の福音は、父と子と聖霊についてのヨハネの信仰告白と言えます。ヨハネはこれをキリストの言葉として表現しています。ヨハネの言葉には三位一体の神秘が反映しています。人となられたイエスが私たちに明かしてくださらなかったら、私たちは三位の神秘については知ることができません。この上なく人を愛される神は、父・母として、子として、聖霊としてご自分の心を人々に示されます。
三位一体との交わりが私たちのものになったのは、洗礼のときです。キリスト者は、三位一体の交わりを深めていく必要があります。父と子との間で交わされる愛の交わり(聖霊)に、入れられるということはどういうことなのか…。
キリスト者の救いの原点であるこの出来事を、各自の体験の中でつかみ、味わいたいものです。
 
4.キリストの聖体
 
  本来は三位一体の主日の次の木曜日であるが、この日が休日でないなど不都合な場合は次の日曜日。祭日。
キリストの聖体の祭日は、本来、「三位一体の主日」の週の木曜日に祝われますが、日本ではこの日が守るべき祭日ではないので、三位一体の主日直後の日曜日に祝います。
「聖体の秘跡」に対して、教会はいつも最大の尊敬をはらってきました。主の生涯の出来事、誕生からご昇天まで祝ってきた教会は、主の形見ともいうべき「聖体の祭日」を祝います。「私の記念としてこれを行いなさい」との主の命令によって、「主の晩餐(ばんさん)」の記念は初代教会から大切にされてきました。
今日祝う「キリストの聖体」の記念祭儀が定められたのは、13世紀のことです。教皇ウルバノ4世が教令を発布した1264年から、この祭日はローマ教会全体で祝われるようになりました。この祭日の目的は、人類に対する神からの恵み、愛の結晶である「聖体の秘跡」について公に感謝することです。『主よ、一緒にお泊まりください』を再読されることをお勧めいたします。その中で教皇ヨハネ・パウロ2世が勧めておられる『教会にいのちを与える聖体』をもこの機会に読み直されたらいいと思います。
A年
第1朗読では、「あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい」とはじまる申命記が読まれます。
エジプトを脱出した民の荒れ野での体験が語られます。この荒れ野の体験に神学的な考察が加えられています。神は荒れ野でマナをふらせ、神の言葉の真実を示されました。
主はモーセに言われた。
見よ、わたしはあなたたちのために、天からパンを降らせる。
民は出て行って、毎日必要な分だけ集める。
わたしは、彼らがわたしの指示どおりにするかどうかを試す。   (出エジプト 16.4) 日ごとに神により露命をつなぐこの体験は「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった」のです。民は飢えを体験し、このマナをいただくことにより、人間の基本的飢えから解放されたのです。
  「あの荒野、荒涼とした、穴だらけの地 乾ききった、暗黒の地 だれひとりそこを通らず 人の住まない地」(エレミヤ 2.6)における神の導きは、実に恵みであり、奇跡とも言えるほどです。
新約においてマナの奇跡に代わるものは、イエスの「血と肉」であり、これは終末的ないのちを与えるものなのです。このいのちをいただきながら、今日も私たちは神に導かれて歩んでいきます。この現実を味わう1日としてはいかがですか。
今日、第2朗読で読まれるコリントの手紙の箇所は、「主の晩餐」について書かれた最古の文献とされています。ユダヤの人が行う過越祭では、4回一つの杯をまわして飲みほす習慣がありました。「祝福の杯」は、この中の第3の杯で、主が最後の晩餐で祝福されたものと言われます。
わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。
わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。
この箇所は真の参加と本質に関わるものです。キリストに関わりをもつ者はキリストと一つになるのです。この一つの杯とパンにあずかる聖体祭儀のうちに、神と神の民とのコイノニア、つまり交わり・一致が最も確かな形で実現するのです。
今日読まれるヨハネ福音書は、「いのちのパン」について書かれている6章の一部です。イエスは、「わたしは、天から降って来た生きたパンである」と、かつてのマナに代わるものはご自分自身であると宣言されます。
古代オリエント社会では、食事を共にすることは、深い宗教的意義をもっていましたが、イエスは聖体の秘跡を「食べ物と飲み物」、つまり食事として制定されました。
ヨハネ福音書では、食事の意義が高められ、イエスと一致し、彼によって生かされるには、その肉を食べ、血を飲まなければと言われます。食物ではなく、食事をする私たちがイエスに摂取され、イエスの体となるのです。
「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる」のです。
イエスが聖体を制定されたのは、ご自分のいのちがこの世から抹殺されようとしていたその時です。イエスはご自分をお与えになることにより、いのちの交わりに招くとともに、私たちはそれに参与することにより、イエスと一つの体となって天に向かうのです。
ご聖体をいただく度ごとに、私たちのいのちの奥にイエスの愛があることを思い、感謝したいものです。
第1奉献文
感謝の祭儀の「奉献文」4つを比較しながら、深めていきたいと思います。
イエスは受難の前夜、とうとい手にパンを取り、…
感謝をささげて祝福し、割って弟子に与えて仰せになりました。
「皆、これを取って食べなさい。……」
第2奉献文
主イエスはすすんで受難に向かう前に、パンを取り、
感謝をささげ、割って弟子に与えて仰せになりました。
「皆、これを取って食べなさい。これはあなたがたのために渡される
わたしのからだである。…」
第3奉献文
主イエスは渡される夜、パンを取り、
あなたに感謝をささげて祝福し、割って弟子に与えて仰せになりました。
「皆、これを取って食べなさい。これはあなたがたのために渡される
わたしのからだである。…」
第4奉献文
食事をともにする間にパンを取り、賛美をささげ、
割って弟子に与えて仰せになりました。
「皆、これを取って食べなさい。これはあなたがたのために渡される
わたしのからだである。……」
B年
第1朗読では、最後の晩餐で聖体の秘跡を定める言葉の源となった「出エジプト記」が読まれます。
イスラエルの民は、モーセに率いられてエジプトを脱出しました。それは、神と契約で結ばれた民となるためでした。今日朗読されるのは、シナイで律法が授与された後に契約が締結された、その儀式の箇所です。神とイスラエルの民との間の契約が、いけにえの血によって結ばれるという重要なところです。
契約は、イスラエルの民にとって、救いの歴史の中で根元的な出来事です。契約自体が神の選びを示しているからです。民は神の言葉に従うことによって、神とのいのちの交わりに入るのです。
第2朗読では、ヘブライ人への手紙が読まれます。ここで、旧約の司祭と対比して、自らを犠牲にされた真の大祭司イエス・キリストの姿が浮き彫りにされています。
実にキリストは、私たちのために自ら死を引き受けられたのです。
「キリストは新しい契約の仲介者なのです。それは、最初の契約の下で犯された罪の贖いとして、キリストが死んでくださったので、召された者たちが、既に約束されている永遠の財産を受け継ぐためにほかなりません」とあるみ言葉は、何と力強い言葉でしょうか。何と希望に導く言葉でしょうか。ゆっくりと味わうことにしましょう。
今日の福音は、マルコの福音書における聖体制定の箇所です。今日の福音は、こうはじまります。
除酵祭の第一日、すなわち過越の小羊を屠る日、弟子たちがイエスに、「過越の食事をなさるのに、どこへ行って用意いたしましょうか」と言った。弟子たちは、どのような思いでイエスにこの質問をし、どんな思いを胸に抱いてイエスと共に食事をしたのでしょうか。
この食事は、イエスのイニシアティブのもとにあります。過ぎ越しの食事は旅だちへの食事です。イエスと弟子たちは、その晩、はるか昔に彼らの先祖イスラエルの民がエジプトの地から出た、解放されたことを記念して祝ったのです。食事を囲む弟子たち。祝いの雰囲気と同時に、伝統的な儀式のかもし出す厳粛な、荘厳な雰囲気。
食事がはじまって、パンが配られた時に、イエスは「取りなさい。これはわたしの体である」と言われたのです。このようなことは、異例のことでした。しかも、イエスは、パンは「わたしの体である」と。イエスの渡されるパンはありふれたパンではないのです。 ヘブライ語で、体は、人間の一部ではなく、人間全体を表現します。ですから、イエスが言われた言葉の意図するところは、イエス全体、イエス自身であるということでした。この食事はどの食事をも越えた食事。この食事に与る人は、イエスの「多くの人のために流されるわたしの血、契約の血」にあずかり、救いが現実のものとなるのです。
この契約は発効しており、私たちはこの血にあずかる度ごとに、新しい契約の民の一員とされたことを、心から感謝し喜び祝うのです。この感謝と喜びの源には、あの十字架で流されたイエスの血があるのです。
「神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい」とのイエスの言葉は、イエスの聖体が、イエスの祈りによって、罪から決定的に清められる終末的教会を形成し、新たにイエスが弟子たちと共にする食事は、メシアの食事となることを意味しているのです。
  「一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた」という言葉で終わる今日のみ言葉の余韻、ここから弟子たちにとっての長い夜がはじまります。
C年
第1朗読では、創世記からメルキセデクのパンとぶどう酒奉献の記事が読まれます。
創世記14章は、旧約聖書の最初の戦争についての記事です。アブラム(アブラハムのこと)と別れ、ソドムに住んでいた彼の甥ルトが捕虜として連れ去られた時、それを伝え聞いたアブラムが駆けつけ、救出するという出来事が語られます。今日の箇所は、後に挿入されたと言われています。この箇所は旧約聖書の歴史伝承の中でも難しく、非常に論議の的となった箇所です。この短いメルキセデクの話は、「ヘブライ人への手紙」7章に見られる解釈により、創世記のこの箇所が重要視されるようになりました。メルキセデクは、「いと高き神」の祭司であり、サレムの王です。
信仰の父として神に選ばれるアブラムが、祭司より「神から祝福された者」として祝福されました。アブラムは、「すべての物の十分の一」を祭司にささげ、神への賛美と感謝をします。神が人間に祝福という力を与えてくださるので、人は神に賛美と感謝を帰すことができます。この神と人との応答関係が礼拝です。この朗読を聞きながらパンとぶどう酒を前に祈る彼の姿は、キリストを思い起こさせませんか。
教会が聖体の祝日にメルキセデクのことを思い起こさせるのは、「ヘブライ人への手紙」に書かれているように、メルキセデクをとおして王であり大祭司であるキリストの犠牲とキリストの聖体の神秘の必要性を、私たちに思い起こさせているからでしょう。
パウロ家族の創立者アルベリオーネ神父は、感謝の祭儀でイエスが聖体拝領で人を訪れてくださった、その訪問の答礼として、会員が聖体訪問をして賛美と感謝、痛悔と嘆願をすることを定め、この聖体訪問を伝えるように願っています。私たちをいつも祝福してくださり、訪問してくださる神への応答として、聖体訪問をなさってみませんか。
第2朗読では、コリントの信徒にあてたパウロの手紙、あの有名な箇所が読まれます。「わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです」とはじまる今日の朗読箇所は、聖体祭儀についての最古の伝承として、また共観福音書に書かれている最後の晩餐の記述と共に教会で大切にされてきたものです。
ユダヤの社会では、家長による感謝の祈りで食事をはじめるので、最後の晩餐の時にイエスが「パンを取り、感謝の祈りをささげた」のも普通のことでした。しかし、イエスはこの会食に特別の意味を与えたのです。つまり、パンは「キリストの体」であり、イエスがみなに飲むように回されたぶどう酒の杯は「新しい契約」のしるしなのです。
初代教会では、主の晩餐を祝うために集まった時には、会食もしていました。パウロが手紙を書いたコリントの教会でもこの習慣は実行されていました。しかし、キリストにより新しい意味のあるこの食事に対し、勝手な振る舞いをする信徒たちがいるのを知ってパウロは「主の晩餐についての指示」、「主の晩餐の制定」、「主の晩餐にあずかるには」と述べ、「主の晩餐」を祝うためのふさわしい態度は、主ご自身に由来するのだということを説くのです。
「だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです」と、パウロはここに重点をおいています。今日のパウロの朗読は、今日 感謝の祭儀をささげる私たちにも、それは特別な意味をもっているのだとパウロは伝えています。あなたはこのパウロのメッセージをどう受け止めますか。
今日の福音は、「すべての人がたべて満足した」ことを語るルカ福音書からです。パン五つと魚二匹をイエスが祝福して弟子に与え、イエスの後を追ってきた群衆にそれを配ると「すべての人が食べて満腹し」、さらに「残ったパンの屑を集めると、十二籠もあった」という記述です。
このルカによるパンの増加の奇跡の記述は、22章の聖体制定の記事、24章のエマオへの弟子たちの記述と近くなっているので、聖体との関係が他の福音史家と比べて、より明らかに示すものと言われています。この奇跡が実際に起こったかどうかを議論するより、この奇跡物語を書いたルカの視点、意図していたことに立ってこの物語を読む必要があります。
ルカは何を伝えたいと望みこの記事を書いたのでしょうか。まず、ルカは他の福音史家とは違う文脈にこの物語を入れました。それを意識しながら、共観福音書を見て、他の福音書と比較しながら読んでいくと、ルカの違い、特徴に気づくでしょう。この機会に読んでみられることをおすすめします。
キリストは、ご自分に何かを求め集まってくる人々を拒むことなく受け入れられます。今日の奇跡の物語には、イエスのもとに集まってくる人々の心と、それに応えるキリストの心の豊かな交わりがあります。初代教会の人々は、主の食卓を糧とし、キリストのあのわざ、キリストの交わりは、自分たちの上にも働いていると心から信じ、確信していたのです。
キリストは、弟子たちに言われたように、今日も「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」とお命じになっておられます。キリストとの親しい交わりをあなたがたが与えなさいと。
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「4→6・45通信」は、「国道4号線沿い(内陸部)から国道45号線沿い(岩手~宮城沿岸部)、6号線沿い(福島県沿岸部)への支援」という意味が込められています。
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◎2025.0401 2025年度司祭・助祭居住のお知らせ
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◎2025.0104 聖年2025年司教年頭書簡
◎2025.01.01 2025年司教年頭書簡駅伝動画
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◎2025.01.01 第58回「世界平和の日」教皇メッセージ
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◎2024.10.28 「2025聖年 希望の巡礼者」について
◎2024.9.01 「被造物を大切にする世界祈願日」                                    教皇メッセージ
◎2024.7.18 日本カトリック司教文書
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TRADITIONAL、CHINESE,
SEMPLIFIED、TETUM (Timor Leste) 、MALAY
 
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◎help desk
      (仙台教区人権を考える委員会)
「ニュースレター」として親しまれた本紙も、最終号を皆様にお届けする時を迎えました。3.11のあの混乱の中で、第1号を出したのは、2011年4月30日でした。第1号は「ありがとう。届いています」と皆様からの献金と支援物資が届けられていることをまず、感謝していますが、これは、10年間ずっと続いてきたことでした。ボランティアとして、支援者として、ベースでの奉仕活動をとおして、全国の教会の皆様が被災地に目を注ぎ、いつも温かく支えてくださったおかげで、最終号・145号まで続けることができました。仙台教区サポートセンターは3月31日で閉鎖されますが、各ベースでの支援活動は続きます。これからも、皆様のこれまで以上の支えが必要かもしれません。最後にもう一度、本紙の読者の皆様に心よりの感謝を申しあげます。ありがとうございました。
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