主の変容 8月6日祝日と聖母の日昇天
1.主の変容
主の変容の祝日は、5世紀ごろから東方教会において祝われていました。主の変容は、受難の40日前に起こったと伝えられてきました。そのため、9月14日の「十字架称賛」の祝日の40日前の今日、祝うようになりました。
そして、教皇カリスト3世(1455~1458年在位)により、1457年に 教会カレンダーに加えられました。
典礼では、変容の出来事を、すでに四旬節第2主日に私たちに思い起こさせています。主の変容は、十字架のつまずきに耐えられるように、弟子たちの心を準備することが目的にありました。同時に、すべてのキリスト者を神の子とし、キリストと共に神の国を継ぐ者とする、父である神とのすばらしい関係をも伝えています。
主の変容の話は、私たちの心を 神の世界に向けさせます。地上での出来事 ― 喜び、苦しみ、悲しみ… ― を復活の栄光の光のもとに見るように招き、そのもとにしっかりと現実を引き受けるように招きます。弟子たちは この変容の出来事を体験した後、イエスと共に山を降り、世の中に入って行きます。
第1、第2朗読は ABC年共通ですが、福音書は、毎年異なります。
第1朗読で読まれるのは、ダニエル書です。主人公ダニエルはバビロンに連れて行かれました。ダニエル書は、おもしろいことに、この主人公ダニエルの時代の数世紀後に、書かれたと言われています。
ダニエル書では、バビロニア ― ペルシア時代のダニエルの信仰の戦いと、預言書の著者の時代とをオーバーラップさせ、後半では自分たちの時代を ダニエルに預言させることにより、
(1)神は忠実な信仰者を決して見捨てない
(2)神は必要な知恵と洞察力とを与えてくださる
(3)これらを信頼してどのような困難な時にも最後の勝利を信じ、戦うように、
と訴えています。今日読まれる読書は(2)の中に入っています。
ダニエルは、来るべき「人の子」の栄光の姿を預言しています。また、ダニエル書の代わりに ペトロの手紙IIを選択することも可能です。ペトロの手紙IIの著者は、キリストの栄光と来臨について語っています。
ペトロが語るのは、変容の山でイエスと共にいたこと、そこでイエスに与えられた御父からの栄光と栄誉を見たこと、神の声がイエスに語りかけておられるのを聞いたということです。変容はイエスの復活の前ぶれとしてではなく、イエスの再臨の勝利の栄光の前ぶれとしています。変容と再臨がお互いに関連し合っていることは福音書を見ていくとはっきりしています。手紙の著者は、キリストの再臨の生ける信仰を人びとの中に呼び戻そうとしています。信仰の目によって十字架を見ることです。
「わたしたちは、キリストの威光を目撃したのです」とのペトロの言葉から、力強いものが響いてきませんか。変えられたペトロ、福音書と共にゆっくりと味わいたいものです。
A年には、マタイによる福音書が読まれます。
「イエスの姿が変わる」ご変容の記事は、共観福音書すべてに記されています。マタイ福音書17章1~9節、マルコ福音書9章2~10節、ルカ福音書9章28~36節です。
これらを比較しながら読んでみると、各福音記者のポイントが見えてきます。
主の変容の記事は、次の3つの出来事が描かれています。
(1)イエスが栄光の姿に変容したこと
(2)モーセとエリヤの出現
(3)天からの声
モーセとエリヤは、旧約の中で、律法と預言者の代表者です。この2人と語り合うイエスは、律法と預言を成就する方です。「山」も、聖書にたびたび登場するシンボルで、「山」と聞くと当時の人々はシナイ山を思い起こし、神の顕現の場と理解していました。モーセとエリヤも、山で神の顕現を目撃しました。
マタイは、他の福音史家と違って「主よ」と呼びかけます。主、キュリオスとは、通常復活された方への敬称です。天からの声、輝く雲によって、この物語はクライマックスに達します。天からの声は、イエスが洗礼を受けられたときと同じですが、その後に「彼に聞きなさい」との句が付け加えられています。
「彼に聞きなさい」と言えば、マタイが福音書を書いた対象の人々は、預言者を立てる約束をされた時に言われた「あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたしのような預言者を立てられる。あなたたちは 彼に聞き従わねばならない」(申命記 18.15)を受け取っていたのです。これが、この物語の主眼点です。
主の受難の物語の前に位置づけている マタイにとって、主の変容の出来事は、3人の弟子に復活のキリストを預言させ、信仰を強め、希望をあたえるものとなったのです。この主の変容は、現代の私たちにとって、なにを語るのでしょうか。弟子たちは、この変容の出来事を体験した後、山から降りました。
B年には マルコによる福音書が読まれます。
「イエスの姿が変わる」ご変容の記事は、共観福音書すべてに記されています。マタイ福音書17章1~9節、マルコ福音書9章2~10節、ルカ福音書9章28~36節です。 これらを比較しながら読むことをお勧めします。
今日の福音を理解するには、ペトロの信仰告白、イエスの死と復活の予告、私についてくる者は、などのエピソードの後に今日の福音の箇所が出てくるということです。イエスはペトロ、ヤコブ、ヨハネの3人を連れて山に登り、3人の前で変容し、エリアとモーセが現れます。その時、ペトロは恐れて、なにを言ってよいのかわからないほどの状態になり、その時「これはわたしの愛する子、これに聞け」との天からの声を聞きます。
ペトロの反応、「ペトロは、どう言えばよいのか、わからなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである」とマルコは伝えています。ペトロの思い、行動、反応などをとおして私たちはキリストの神秘を学んでいくことができます。
今日の福音の前に、ペトロはイエスから受難を予告されると、彼はイエスのそでをひいていさめたのです。そのペトロをイエスは、サタン呼ばわりされています。ペトロはイエスが苦しみを受けるということを、まったく理解できませんでした。彼のメシア像はまったく違っていたのです。
ペトロはイエスの宣教の旅をご一緒しながら、イエスが権威をもって会堂で教え、病をいやし、悪魔を追放するなどを見て、そこからイエスが苦しまれるなどということは想像もしませんでした。多くの人たちと同じように、彼も自分たちの苦しみから、ローマ帝国の支配からも解放してくれるメシア像を描いていたと言えます。しかし、神が示される道、その神秘は、人間の救いは、イエスの苦しみの死をとおしてしかありえなかったのです。この神秘を、神の思いをペトロたちにわからせたのが、この山上でのイエスの変容の出来事だったのです。
「これに聞け」と天からの声、ここに、ペトロはご自分の輝きを隠し、十字架を背負って歩む苦しみのしもべ、イエスの神秘に目をあげるようにと教えられるのです。イエスは、十字架のつまずきに耐えられるように弟子たちを準備されるのです。この体験の後、弟子たちはどうだったのでしょうか。マルコは「彼らはこの言葉を心に留めて、死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った」と記しています。
C年は ルカによる福音書が読まれます。
「この話をしてから八日ほどたったとき」と今日の福音ははじまりますが、「この話」とは、今日の福音のすぐ前に書かれているイエスの死と復活の予告を指しています。
イエスは、ペトロ、ヨハネ、ヤコブを連れて、祈るために山に登られます。その祈りの中での話です。イエスはその祈りの中で姿が変わられます。この変容は外形上の変化ではなく、神の子としての本質の現れです。
旧約の中で、律法と預言者の代表者であるモーセとエリヤの二人がイエスと語り合っています。「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について」です。この時、弟子たちはゲッセマネの園の時のように睡魔に襲われますが、じっとこらえ、「栄光に輝くイエスと、そばに立っている二人の人」を見ることができました。
しかし、この二人の会話は聞けなかったのでしょう。いや、聞くのをさけていたのかもしれません。ですからイエスに提案します。「仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです」と。こうして、仮小屋を建てることにより、栄光に輝く三人を地上にとどめようとしたのです。しかし、ペトロは「自分で何を言っているのか分からなかった」のです。
天と地のシンボルである雲が現れます。そして、ペトロを正します。「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と。声がしたときにはイエスだけがそこにおられたというのは、意味深いと思いませんか。
ペトロはイエスに聞き従わねばならないのです。そう声は招いたのです。弟子たちはイエスにこの体験の意味を尋ねようとはせずに沈黙を守っています。十字架の死を見つめることはできないのです。弟子たちは「見たことを当時だれにも話さなかった」と終える今日の福音は、深い余韻を残しながら私たちに訴えます。
福音書はそこに登場する人物をとおして今の私たちにメッセージを残します。その中でもペトロの性格、感情などが実にいきいきと描かれています。弟子たちが仰ぎ見た姿、栄光のありのままを、私たちも他日見ることでしょう。その日のために私たちは今から準備するのです。
8月にこの主の祝日があるのは、実に意味深いことです。私たちは地上の生活を終え、永遠のいのちへの旅を考えさせる時だからです。この旅の中で、十字架は避けられませんが、十字架の苦しみは背負う価値のある苦しみです。
2.聖母の被昇天 8月15日。祭日。
聖母の被昇天の祝日は、1950年に「無原罪の聖母が地上の生涯の終わりにからだも魂もろとも天にあげられた」と教皇ピオ12世によって定義されたように、マリアが栄光につつまれて天国へ上げられたことを祝います。
聖母の被昇天は、マリアが神の母であることに由来します。マリアが神の母になったことが全世界にとって恵みであるように、マリアの被昇天は、神へと昇る全人類の被昇天のはじまりでもあるのです。
5世紀のエルサレムでは、8月15日にマリアを神を生んだ方「神の母マリア」として祝われていました。6世紀には、マリアの永眠の日として東方教会で祝われるようになりました。これが7世紀に、西方教会でも受け継がれるようになりました。ローマ皇帝マウリチウスは、この祝日を国際日として定めたため、7世紀になるとほとんど全教会で祝われるようになり、8世紀には、「聖母の被昇天」と呼ばれるようになりました。
「8月15日の日は、一切をなし終えてみたされ、祝福にみちあふれた彼女の生涯を飾る祝日であるとともに、汚れのない魂と処女を守りとおした肉体の栄光をたたえ、さらにまた、復活したキリストに彼女が完全にあやかるものとなったことを祝う日です。」と、教皇パウロ6世は回勅「マリアーリス・クルトゥス ― 聖母マリアへの信心 ― 」で述べておられます。
第1朗読では、旧約聖書ではなく、黙示録(11.19a、12.1-6、10ab)が読まれます。1人の女性の黙示が、キリストの教会とマリアの姿を表しています。この女性は、天のエルサレム、キリストの花嫁である教会で、キリストを生み、生涯キリストと結ばれたマリアの姿でもあるのです。ですから、教会の象徴であるマリアは、教会に属する人の姿を表す典型ともいえます。
第2朗読では、コリントの信徒への手紙(コリント I 15.20-27a)が読まれます。パウロは、キリストの復活がすべての人に救いをもたらすことを、アダムの死と対比させて語っています。死者の復活を否定する人々に、パウロは「キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」と言っています。「初穂となる」とは、キリストの復活がキリスト者の復活の根拠であり、原動力だからです。
聖母の被昇天を祝う今日の福音は、ルカ1章からとられています。イエスを身ごもったことを知ったマリアが親戚のエリザベトを訪れる場面、「マリアの賛歌」として知られている「マグニフィカト」が読まれます。
聖書の中でマリアの姿は、イエスを生んだ1人の女性というよりも、ある人々の代表のように描かれているのに、気づきます。救いを待ち望んでいたイスラエルの人々の代表、救いを受けたキリスト者の代表として。人々の代表としてのマリアという受け取り方は、教会がずっと大切にしてきたものです。
今日祝っている被昇天も、救いを受け入れたマリアを代表としている人間が、最終的にはどうなるのか、ということを示しています。私たちはみな、マリアのようにキリストの復活にあずかり、完全に救われた者、被昇天する者となることを示しています。マリアのうちに救いの歴史のあらゆる出来事が成就され、マリアは偉大な神をたたえるように全教会を招きます。そのため、教会は歴史をとおして、何世紀にもわたってマリアの賛歌を「晩の祈り」で歌ってきました。
今日、聖母の被昇天にあたって、第2バチカン公会議が「教会憲章 103」の中で、「キリストの生涯の秘義を、1年の周期をもって祝う際、教会は神の母である聖マリアを特別の愛をもって敬う。…教会は聖母のうちに、あがないの最もすぐれた実りを感嘆し、ほめたたえ、あたかも最も純粋な姿のうちにおけるものとして、聖母のうちに、自らが完全にそうありたいと欲し、希望しているものを、喜びをもって見つめるのである。」と言っています。このマリア像を、祈っていってはどうでしょうか。